エゼキエル書47:1-12 マルコによる福音書2:1-12
カファルナウムで起こった中風の人の癒しの出来事は、よく聞かれる話でですが、 その奥行きにはなかなか到達できません。物語の前面は、この中風の人が4人の友人 に担がれて主イエスの御前に置かれる、なんともユニークな近づき方で聞くものの心 を惹き付けます。大勢の群集に阻まれて主イエスに近づけないと見るや、屋根にのぼ って大きな穴を開け、そこから病人をイエスの前につり降ろした、というのですから。 なんとも乱暴な大胆な行動です。しかし、そこには何としても主イエスに病を癒して もらいたいという熱烈な願いとそれに共感して助けをいとわない生きた人間の交わり があります。主イエスは、彼らの信仰を見て、この人を癒されます。主イエスが見た 「信仰」とはどのような信仰だったのでしょうか。それはこの大胆無謀な行為を通し て主の前にこの病人を置くにいたるプロセス全体の中にあるものでしょう。そこに、 わたしたち教会やキリスト者が伝道や奉仕においてあるべき「信仰」の姿を、そこに 確かに見ることが出来ます。 そこで、主が「彼らの信仰を見て、子よ、起き上がって床を取り上げて家に帰りな さい」と言ったなら、この物語はわかりやすい奇跡物語で、それを通してイエスの偉 大さを伝える話になりますが、そのように展開しません。「あなたの罪は赦される」 と主は語られ、それをもとに律法学者たちの心に「神お一人のほかにいったい誰が罪 を赦すことが出来るだろうか」との疑いを生じさせ、そこから、「人の子はこの世で 罪をゆるす権威を持っていることを知らせよう」と言う主イエスのことばへとつなが ってゆきます。律法学者たちの疑いをあえて掘り出して、病の癒しと罪の赦しを同時 に行っているのです。なぜ罪の赦しなのか、この謎に直面することなしには、主がこ の世に生きておられることの意義を知ることは出来ません。神の国か来ていると言う 現実がそこに展開しており、そこから人間の世界に独特の反応が起こっています。こ うして、神の国の到来を告げ、病を身に負う主の歩み、人の子としての歩みが展開し ます。