イザヤ書2:1-10 マルコによる福音書2:13-22
「断食」をめぐって、バプテスマのヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちが 共に、どうして断食をしないのかと主イエスの弟子たちに問います。主イエスは、徴 税人や罪人と共に食事をし、「見ろ大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と非 難されたり、食事をめぐって軋轢があったことを福音書は伝えています。これに対し て、主イエスは、花婿が一緒にいる婚礼の客は、花婿が一緒にいる限り断食はしない。 織りたての布を古い衣の破れのつぎあてにしない。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れ はしない。と意表をつくたとえ、実に、ユダヤの庶民の生活に密着した喩えをもって 応えています。そこには、明らかに、それまでの宗教生活のあり方、神を礼拝するあ り方と本質的な違いがあることを示しています。 「断食」は、ユダヤ人にとって重要な敬虔の表現であったのは確かです。神の前に 自らを省み、心から立ち帰って神との正しい関係の中で生きることの表明です。折に ふして国民全体が断食し、また敬虔なユダヤ人は週に2度断食していました。これに 対して、主イエスは、今のときを花婿が共にいる「婚礼のとき」として断食のときで はないというのです。「婚礼の客」は正確には「花婿の婚礼に付き添いう友人」の意 味で、ただ婚礼の祝いに浮かれ騒ぐ客ではありません。婚礼を取り仕切るための周到 な準備と心遣いが必要です。しかし、その心遣いは「断食」のときに向ける配慮とは 異なります。一方では悲しみと神への畏れ、自分の過去への思いめぐらしがあり、自 分自身が中心です。他方では、喜びをいよいよ大きくするための他者への配慮があり、 目は将来に向けられています。前者も後者も神の前での人間のあり方において、その 真面目さ、真剣さは疑うことが出来ません。しかし、その質がちがいます。主イエス は、ここで、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきだ、とよく知られた言葉を語 られるのです。主イエスが共におられ、ご自身を与えるキリスト者の礼拝の本質を、 「婚礼」、「新しいぶどう酒」に譬えたこと、この新しさの中にわたしたちもいます。