エゼキエル書36:22-32 マルコによる福音書2:23-3:6
主イエスの宣教のはじめ、ガリラヤ湖周辺の町々での宣教や癒しによって大勢の人々 が主イエスのもとに押しかけます。しかし、そこですでにファリサイ派の律法学者た ちやヘロデ党の者たちとの厳しい対立があり、「どのようにしてイエスを殺そうかと 相談し始めた」と記されています。十字架への歩みはここから始まっているのです。 ここに二つの安息日の律法破りの話が記されています。主イエスの弟子たちが安息 日に麦畑の中に入って穂を抜いて麦を食べているところを、ファリサイ派の人々が見 咎めて、「なぜ、安息日にしてはならないことをするのか」といったのに対し、ダビ デの故事を引きながら「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるの ではない」と語られたこと。また、安息日に「イエスを訴えようと思って」会堂で片 手のなえた人を癒されるかどうか注目している中を、主は「安息日で律法に許されて いるのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」といわれ て、この人を癒されたこと。どちらも、主イエスとファリサイ派の人々との対立は妥 協や折り合いの余地がないものになっています。しかし、両者共に安息日そのものに 対して、その意義を否定したり廃棄しようとしているのではありません。何が根本的 に違うのでしょう。安息日の用い方、活かし方に違いがあります。ファリサイ派の人々 にとって、安息日は正しく守っている自分たちの誇りを擁護するもの、守れないもの をさばく道具となっています。しかし、安息日を守る会堂の中にも主の安息に十分あ ずかる人と半分しか味わえない人があることには心が向いていません。しかし、主イ エスのまなざしは、人に真の安息をもたらすはずの安息日が十分に生かされていない 人に向けられています。神が創造された世界の中に設定されている真の安息日の回復 を実現しておられるのです。律法主義との対決、この対立は、わたしたちの誇りの構 造のただ中にあり、おそらく世界の終わりまで続くでしょう。主イエスは、ここにメ スを入れておられ、十字架を自ら負われます。