2月10日
2008年2月24日

「 使徒―遣わされる者 」

エレミヤ書1:4-19 マルコによる福音書3:7-19


 ガリラヤ湖のほとりでの主イエスの宣教。イスラエルの国中から人々が押し寄せ、

群集に押しつぶされないように小舟を用意してそこから話をされる。病人は主イエス

に触っていただこうと殺到し、汚れた霊どもは「あなたは神の子だ」と叫ぶ。何か異

様な光景です。そのすぐ前には、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が相談をして、

「どのようにしてイエスを殺そうかと相談を始めた」と記されています。神の子が地

上で神の国の福音を宣べ伝えることによってもたらされる緊迫した情景、天と地とが

衝突をしているような情景が繰り広げられています。神の国の到来を告げる「福音」

は、病む者や貧しい人々には待ちに待った救いの時が来たことを告げますが、この世

界を支配している人々には神への冒涜。神の国の宣教を喜んでいる人も、そこで期待

しているものは目の前の災難が取り去られること、それ以上ではありません。神の支

配のうちにある深い神の恵み、罪の赦しと神との正しい関係へと回復される喜びのメ

ッセージは届きません。主イエスの宣教によって繰り広げられる情景は、平和に満ち

たのどかさというより、何か異様な緊張に満ちた世界であることを福音書は伝えてい

ます。

 このような状況で、このような状況を主イエスと共に生きる仲間として、主イエス

は12弟子を選ばれます。「使徒」として、主イエスの十字架の死を目の当たりにし、

また復活の証人として世界の果てにまで主の福音を宣べ伝えることになる人たち。こ

の小さな集団こそキリストの教会の原像であり、主に従うわたしたちの原型です。ど

のような人が、どのような働きを期待され特別に選ばれているのか、ここで記されて

いる一つ一つの言葉、一人一人の存在は重要です。「これと思う人々を呼び寄せ、・・・

使徒と名付け・・・彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追

い出す権能を持たせるためであった。」ここで選ばれているシモン(岩)ペトロヤコ

ブやヨハネ(雷の子ら)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダなど、この人たちを

使徒に「造る」のは主ご自身です。


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