創世記25章1−18
「アブラハムは175歳になるまで生きた。アブラハムは年をとって白髪になり、 十分に年をとって命絶え死んだ。満ち足りて、父祖の仲間に加えられた」(v.8) ここでアブラハムの生涯は終わりです。175年という年はアブラハムが主の言葉 を聞いて旅に出てから100年間、カナンの地ですごしたことになります。試練の 日もあり、闘いの日もあり、隣人やサラとの間で失敗もありました。しかし、まさ に信仰の生涯というべき、何よりも主の言葉を信じて旅を続けた生涯でした。神の 約束は確かに無駄に終わることなく祝福された生涯でした。 このようなアブラハムの老いと死を取り上げるとき、聖書の記し方はとても印象 的です。当然のことが起こったように記して、偶然のあってはならないことのよう には記していないのです。先の8節のことばは、死を意味する言葉と老いを意味す る言葉がそれぞれ2回づつ使われています。死は「空っぽになること」、「空腹に なる」ということを意味する語源を持った言葉と、後は極めて一般的な死を意味す る言葉です。「昇天」、「帰天」、「成仏」、「みまかる」、など死の耐え難い悲 しみや、激しさをやわらげることばをどの文化においても使いますが、聖書は死ん だと言う確固たる現実を現すほかに、息絶えた、空っぽになったという裸の現実を 表す言葉だけが、信仰の父アブラハムの死に使われているのです。死者が神になる のではなく、死後の霊が生きたものを支配するのではなく、ただ神のみが命を与え 命を取られる、そのあいだを主の言葉に従って歩むものには、「満ち足りて死ぬ」 という事態があるということを告げるだけです。また、「老い」をあらわす言葉は、 白髪になることを意味する言葉と、年をとるという言葉と、これはアラビア語が語 源で「雌のラクダの下唇がだらんと下がること」を意味する言葉です。ともに老年 になることの容赦のない現実を描写しています。このように人間の老いと死の現実 をありのままの現実として捉えながら、しかもその生涯が、そしてその死が祝福さ れたものとして、まさに全人類の中から神に選ばれた人の死を語っているのです。 「アブラハムの懐」は後の時代の人には死後の天国を意味するほどに幸いなものと されています(ルカ16:19−31)。主イエス・キリストの十字架の取りなし と復活の恵みについて知ることはなかったアブラハムは、しかし、主の言葉に従っ て旅をする人、主の真実の慈しみを信じて生きる人には、祝福された死、復活の命 にあずかることが先取りされていることを告げているのです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る