3月2日
2008年3月2日

「 聖霊を冒涜する罪 」

ホセア書8:7-14 マルコによる福音書3:20-35


 マルコ福音書を通して知る神の子イエス・キリストの福音のはじめは、愛と喜びに

満ち、平和が全地を覆うという光景ではありません。一方では、福音が語られ、悪霊

に憑かれていた者が解放され、病人が癒される、そのような情景を見るため人々がイ

スラエルの国中から殺到し、「一同は食事をする暇もないほどであった」というような

熱狂が生まれています。人々の心には渇きがあります。主イエスは、まさに「食する

暇も打ち忘れて、虐げられし人を訪ね、友なき友の友となりて、心くだきし、この人

を見よ」と歌われるように、その熱狂のただなかにある渇きに応えようとしています。

しかし他方、全く別の反応、怒りと殺意の渦のようなものが次第に大きくなっていま

す。神の国の福音がこの世に伝えられるとき、そこで必ず起こるこのような異様な緊

張を福音書はリアルに伝えているのです。

 二つの種類の冷や水を浴びせかける反応が伝えられています。「身内の人たちはイ

エスのことを聞いて取り押さえに来た。あの男は気が変になっていると言われたから

である」という内なる反応、「あの男はベルゼブルに取りつかれている。・・・悪霊

のかしらで悪霊を追い出している。」これはエルサレムから来た律法学者、当代の宗

教権威者の反応です。ベルゼブルとはカナンの神名で「悪霊の首領」と同じような意

味です。主イエスは、これらの冷ややかな情熱に対して沈黙と無視をもって向かい合

いません。権威ある教えのその権威のありかを明確に示されるとともに、衝撃的な謎

の言葉を語られます。「人の子らが犯す罪はどんな冒涜の言葉も赦される。しかし聖

霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。聖霊は今生きて働く

神の働き、主イエスの力の本質、またその力と本質を見分ける天からの光です。誰も

聖霊によらなければ、「イエスは主である」と告白することは出来ない、そのような働

きをします。善・悪・正・邪を判断する究極のものさし、神の子の福音が照らし出し

ているものの本質を汚すときに、そこには永遠に救いがなく、究極の滅びがあること

を明らかにされます。


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