ミカ書4:1-8 マルコによる福音書3:31-35
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか・・・。ここにわたしの母、わたしの兄弟 がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また、母なのだ。」この主イ エスのことばはよく知られています。教会員どうし「兄弟、姉妹」と呼び合う習慣が ありますが、しかし、何かわざとらしさを感じなくもありません。主イエスがこの言 葉を語られたときの、血縁や地縁などの自然的な同質性により頼むことへの激しさと 戦いの姿勢を学ぶことなしには、この言葉の洞察の深みは上滑りします。マルコによ る福音書によれば、この主の言葉は、「身内のものがイエスのことを取り押さえにや ってきた、『あの男は気が変になっている』といわれたからである」という、母マリ アや兄弟たちの介入に対して語られた言葉です。これは穏やかな話ではありません。 どう見ても、この家族の関係は、深い信頼と理解によって支えあう関係ではありませ ん。互いに束縛し合い自由を奪い合っている関係、病んでいる家庭の姿を呈していま す。この情景は、今日、家族の関係で苦しんでいる人たちには慰めになるでしょう。 平和に満ちた心の支えとなるはずの家庭が、もっとももふかく傷つき希望のないもの になるわたしたちの人間の状況を、主イエスもまた生きておられます。主イエスの家 族も、イエスの外に立って、イエスを支配しようとしているのです。 「神の御心を行う」とはどういうことでしょう。福音書を読むと、これには二つの 方向があるのに気づかされます。一つは、それは「自分を捨てること」です。ゲツセ マネの主の祈りは、「どうかこの杯を取り除けてください、しかし、わたしの願いで はなく、御心が行われますように」ということでした。わたしの願いを退け、主のみ 心に従うことです。もう一つの方向は、積極的に「いと小さき者への配慮」や「失わ れた者を回復する」という御父の願いを実現するという方向です。神から遠く離れた 者を、命の道に呼び戻すこと。わたしたちの確かさは、血縁の関係にではなく、まさ に「御心」を行うことにある、という主の導きは、現実の血縁の関係を糺し、癒す言 葉でもあります。