3月16日
2008年3月16日

「 神の言葉を蒔く 」

イザヤ書55:9-13 マルコによる福音書4:1-20


 マルコによる福音書は、新約聖書にある4つの福音書のうち最も短いものですが、

最も古く、他の福音書の構成にも大きな影響を与えていることはよく知られています。

主イエス・キリストの生涯、その言葉と行動、十字架の死に至る歩み、復活のことを

書き記したものが「福音書」と呼ばれるようになりますが、そのような文学類型はま

さにマルコによる福音書から始まったと考えると、そこで何を伝えようとしたか、耳

を澄ましてその気迫を聞き取りたいと思います。

 冒頭のことば、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」この短いことばの中に

福音書全体を貫いている心棒を見ることが出来ます。イエス・キリストが「神の子」

であること、またその生涯を描き伝えることは「福音」であること。

 それにしても、マルコにおいて「神の子」という言葉の使われ方は単純ではありま

せん。主イエスご自身は自らを「人の子」と語って「神の子」と語ったことは一度も

ありません。汚れた霊に取り付かれた男がイエスのことを「神の子」と語ったことが

2度、天からの声が語ったことが2度、決定的なのは、十字架の上で息を引き取った

後、それを見ていたローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と語った

ところです。この福音書が伝えている「神の子」の像は、奇跡を通し、また超人的な

言葉や行いを通してではなく、まことの「人の子」として生き、人々の無理解や反発

の中で罪を負って死ぬ、そのような姿において示される「神の子」です。この神の子

において神の国が近づいており、悔い改めて福音を信じることが求められています。

更に、その歩みの全体を語り伝えることが「福音」だというのです。「福音」という

言葉も、単純な喜びの知らせではありません。それを聞いて信じるものは、神の支配

の中に入れられ、永遠の命をうけますが、それは、イエスに従って生きることを決断

するように求められ、この世ではイエスと共に迫害を受ける覚悟をすること、自分の

命を愛することを捨てることを求められます。中立、傍観の位置はないのです。


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