3月23日
2008年3月23日

「 主に望みをおく者は若やぎて 」

イザヤ書40:27-31 フィリピの信徒への手紙3:2-11


 主イエスの復活の出来事は大きな驚きと戸惑い、また疑いと共に伝えられますが、

主ご自身が生きた姿をお示しになることによって、主イエスと共に生きる者を、疑い

から確信へ、おびえ臆するところから大胆に語ることへと変えてゆきました。復活は、

主イエス・キリストの生涯の終わりを十字架の死ではなく、永遠に生きてわたしたち

と共にいると言う希望のメッセージをわたしたちに伝えます。しかし、それだけでは

ありません。主イエスの復活は、主イエスに起こった不思議な歴史的出来事であるだ

けでなく、主イエス・キリストに結ばれて生きるわたしたちにおいて起こる出来事で

もあるのです。死ぬべき命の内に生きているわたしたちを、復活の命へと結びつける

出来事、これが主イエスにおいて神がわたしたちに示してくださった復活の出来事の

真のメッセージです。

 パウロは自らの信仰生活の目標を、「何とかして死人のうちからの復活に達したい」

と述べています。それと共に、「復活に達する」と言うことがどのような内容を含ん

でいるかについてもその輪郭を描き示しています。それは、「キリストを得、キリス

トの内にいるものと認められること」。この知識は絶大なもので、人生において価値

があると思われることは一切損失と思われるほどだ、というのです。「キリストの内

に自分を見出す」。とはどういうことか。「律法から生じる自分の義ではなく、キリ

ストを信じる信仰よる義を得ること」、「キリストその復活の力を知り、その苦しみ

にあずかること」、それによって「死人のうちからの復活に達すること」と三つの要

諦を明らかにしています。これはまさにキリスト者の生活全体を包括する内容ですが、

復活にあずかる道が、主イエスの苦難とその死の様と等しくなるという方向で示され

ていることが肝心なことです。復活を思念することは、神秘的な超人的な奇跡を求め

ることによってではなく、むしろ下方に向かうこと、人類の罪のためにその負い目と

死を担う方向において、主イエスの復活にあずかるものとなるのです。洗礼はその歩

みのはじめです。


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