3月30日
2008年3月30日

「 福音“ともし火”と”秤“ 」

エレミヤ書23:23-32 マルコによる福音書4:21-25


 主イエスは譬えを用いて人々に話されましたので、多くの譬えが福音書に記されて

います。不思議なことに、ここに取り上げた「ともし火」と「秤」の譬えは、それぞ

れが結びついている言葉が福音書によって全く違うのです。例えば、「ともし火」の譬

えでは、升の中や寝台の下に置かないというのですが、ここから「隠れているもので

あらわにならないものはなく、秘められたもので公にならないものはない」と言う言

葉が続きます(ルカ8:16も同じ)。同じ譬えがルカ11:33〜36では、「あ

なたがたの体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全体が明るいが、濁

っていれば体も暗いと言う言葉と結びついています。また、マタイ5:15以下では

ともし火の譬えは「そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があ

なたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるためである」という言

葉と結びついています。「秤」の譬えにしても、マルコでは「何をどう聞くかに注意

しなさい」と言う言葉と共に語られていますが、マタイでは「人を裁くな、あなたが

たも裁かれないためである」と言う言葉と結びついています。譬えの背後にある意味

の捉え方がさまざまです。と言うことは、まさに、「聞く耳のあるものは聞きなさい」

と言われるとおり、主イエスの譬えは、それぞれの聞く耳に従って聞かれることを福

音書自ら実証しているということです。

 では、マルコはこれらの譬えから何を聞いているか。明らかに、ともし火はみ言葉

のもたらす光です。闇の中に小さくともるその明かりによってもたらされる効果、喜

び、その感動は、福音、十字架の言葉がもたらすもので、それは確かに、闇の中に埋

もれるものではありません。それゆえに、次のステップが大切です。そのみ言葉は、

秤のように聞くものの聞き方を量ります。同じみ言葉を聞いても、信じて命をもたら

す言葉となることもあれば、また全く無駄な言葉にもなるからです。聞くものの聞き

方と決断が問われます。だから、「何を聞いているかに注意しなさい」と言う警告が続

きます。


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