4月6日
2008年4月6日

「 からし種のたとえ 」

エゼキエル書17:19-24 マルコによる福音書4:26-34


 主イエスの二つのたとえ話、人が種を蒔くと、夜昼寝起きしているうちに、茎が出、

穂が出、その穂が豊かに実り、刈り入れの時が来る。また、神の国は「からし種」の

ようだ。土に蒔くときはどんな種よりも小さいが、蒔かれるとどんな野菜よりも大き

く成長し、空の鳥が巣を作るほどになる。これらの譬えは、共通して種の成長の不思

議を捉えています。確かに、からし種にしても他の種にしても植物の種は自然の営み

の神秘、「成長」と言うイメージの不思議にわたしたちの目を見開かせてくれます。

しかし、この二つの譬えそのものは何のドラマもなく、ただ自然の中にあるある日常

的な現象を捉えているに過ぎません。主は言われます。「聞く耳のあるのも聞きなさ

い」と。一体、これらの譬えから、何を聞けばいいのでしょう。

 これらの譬えの意外性は、「種の成長」と言う現象が「神の国」のありようを映し

出す鏡として用いられているところにあります。種の成長の不思議は誰でも身近に見

ています。しかし、それが神の国を待ち望み期待することと結びつけることが出来る

人は少ないでしょう。主イエスの時代のユダヤ人はメシアの到来と共にローマの支配

からユダヤを解放する事態を神の国の到来としてイメージしましたし、また福音書の

時代のキリスト者は、「マラナタ」と祈りつつ、主の再臨のときを待ち望みました。

雲に乗ってくる審判者イエス、そのとき、天の端から端まで一瞬にして変えられるの

です。わたしたちの持っている希望のイメージもかなり空想的で荒唐無稽なものであ

る場合が多いでしょう。主イエスの描く神の国、神の支配のイメージは、死後の世界、

空想の世界にではなく、もうすでにわたしたちの日常の中で経験していることの中に

その姿を現わしています。一粒の小さな種、成長し、刈り入れの時を待っている種。

人が引き伸ばすのでもなく、「ひとりでに、どうしてそうなるのかしらぬ間に、確実

に一定の過程を経て・・・。主イエスの十字架の言葉がわたしたちの世界で働くあり

よう、教会の成長は、そのようでしたし、また、そうあり続けるでしょう。


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