申命記8:1-10 マルコによる福音書4:35-41
主イエスと弟子たちは小舟に乗ってガリラヤ湖の向こう岸に渡りますが、途中で大 嵐に遭遇し、風と波で舟が沈みそうになります。そのとき主が風と波を静められたこ とは福音書記者がこぞって書き記しています。その描き方の違いは興味深いものがあ ります。夜、突然の嵐、「舟は波をかぶって水浸しになるほどであった。」しかし、 主イエスは艫のほうで眠っています。そのとき弟子たちが主イエスに語りかけた言葉。 マルコは「先生、わたしたちが溺れてもかまわないのですか」、マタイは「主よ、助 けてください」、ルカは「先生、先生、おぼれそうです」と、それぞれ呼びかけ方が 違います。その違いによって、教会が、また、キリスト者が危機に陥ったとき、主イ エスにどのような関わりを求めているかの違いがあることに気づかされます。マルコ の場合、旧約の預言者ヨナのことを思い起こさせます。主の命に背いてタルシシに逃 れる途中、主は大嵐を起こされますが、ヨナは船底で眠っています。船長は「寝てい るとは何事だ。さあ起きてあなたの神を呼べ」と命じます。恐怖に支配された弟子た ちも、主に向かって危機を共有する仲間となることを強制しています。わたしたちは、 このような場合どのように主を呼んでいるでしょうか。 主イエスが起きて風と波をしかると、たちどころに凪になり、弟子たちが驚嘆する のはどの福音書も同じですが、そのとき主は弟子たちの「信仰」を問題にします。マ ルコは「まだ信じないのか」、マタイは「信仰の薄いものよ」、ルカは「信仰はどこ に行ったのか」です。主が問いかけられるどの言葉も、信仰者の不信仰の姿をあらわ に示して、わたしたちの胸に痛く響きます。マルコの「未だ信仰に到達しない」とい うのはどういうことなのでしょう。それは、神の国の福音が告げられ、そのために召 され、その秘密が明らかにされ、まさに、まだ種から芽が生えたばかりのようなもの であっても、すでに神の国の現実が展開されているのに、未だ、現実の嵐に遭うと周 章狼狽する弟子たちの現実を示しているからです。そしてわたしたちの。