列王記上18:30-40 マルコによる福音書5:21-43
ガリラヤ湖の向こう側からこちら側へ、都会の雑踏とは違って風と湖と野外の情景 が背景として広がります。ここでも人々は主イエスのもとに押し寄せ、休むいとまも なく神の国の宣教の働きが続きます。会堂長ヤイロの娘の癒しのために家に向かう途 中、12年間出血のために苦しんでいた女性の癒し。 「多くの医者にさんざん苦しめられ、彼女からすべての物が奪いされれたあげく、 結局誰も助けてくれる者がないばかりか、ますます悪くなってゆく。」この女性の12 年間を描き出す言葉は、この人の病の重荷がどれほどのものであったかを雄弁に伝え ています。それに加えて、出血が意味する聖書的な背景も考慮しなければなりません。 それは「穢れ」として、人に触れることも人から触れられることも禁じられていまし た。神からも、社会からも閉ざされ、孤立した状況に置かれていたということです。 この女性が群衆にまぎれて後ろから主イエスの衣にふれ、病を癒していただいたので す。さて、ここで、この女性のこのような行為は、「信仰」と言えるのか、それが問 題です。「この方の衣にでも触れさえすれば癒していただける」と信じ、行動したこ と。正面からイエスに出会ってお願いするにはあまりにも汚れの多い存在と自覚して いること、それは、この女性の「信仰」のかたちとして理解できます。しかし、「後 ろから衣に触れた」、この匿名性、無名性はどう理解すべきか。身勝手な卑怯な振る 舞いと解されて仕方がありません。主イエスは、これをどう捉えられるか。これがこ の奇跡物語のポイントです。主イエスは立ち止まります。あえて、立ち止まります。 そして、この癒された女性を捜し出し、「あなたの信仰があなたを救った。安心して 行きなさい」と語りかけられるのです。「わたしの力が、わたしの信仰が」ではなく、 その信じ方に問題があることを矯正するのでもなく、「あなたの信仰が」と敢えて語 られるところに、主イエスの愛があり、そこに癒しの力があるのを感じます。このよ うにして、主イエスは、神の国から最も遠いところにいる人を神と人との正しい交わ りへと回復してくださるのです。