列王記上17:17-24 マルコによる福音書5:21-43
12年間出血に悩まされていた女性が主イエスの後ろから近づき、衣に触れただけ で癒されたと言う出来事に目を奪われているあいだに、会堂長ヤイロの娘の事態はも う取り返しのつかないことになっていました。「もう娘さんは亡くなりました。先生 に来ていただくには及ばないでしょう。」 ヤイロにとって娘の命は大変重いものでした。自分の誇りや体面をかなぐり捨てて 主イエスの前にひざまづき、「わたしの娘が終わりを迎えています。来て手を置いて やってください。何とか救ってください。生かしてください」と頼んだその姿は、時 代を超えてわたしたちにも迫るものを感じます。主イエスは、この重い命の現実を共 に担うために、ヤイロの家にまで共に行ってくださいます。しかし、もう手遅れ。 主はこのとき、ヤイロに「恐れることはない、ただ信じなさい」と語られ娘の部屋 にどんどん入って行かれます。この「恐れるな」と「信じなさい」の二つの言葉が意味 することをわたしたちはどれほど理解することが出来るか、ここがポイントです。何 を信じるのでしょうか。娘の癒し?イエスの力?現実に目をふさぐ信仰?すでに起こ ってしまった現実を受け入れる信仰?ヤイロの経験は、希望と現実のあいだにある深 い暗黒の中に落ち込んでしまった人に信仰を持つように求められた時の戸惑いをよく 示しています。信じる対象を失ったものに何を信じることが出来るでしょうか。迷信 と妄想の世界が目の前に広がるところで、ただヤイロを現実に引き止めているのは 「恐れるな」と語ってくださる主イエスが目の前にいると言うことだけです。このよ うに「信仰」は、何を信じるかから誰を信じるかに飛躍することを求めます。主イエ スはわたしたちのとって終わりであることが終わりではありません。わたしたちのと って超えることの出来ない生と死の境界は主にとっては境界ではないのです。その現 実に踏み込んで「タリタ・クム。さあ、起きなさい」と引き起こして下さる。このよ うな主が、私達の支えきれない重い命の現実にも、共に担うために、踏み込んできて くださいます。