5月18日
2008年5月18日

「 驚くべき不信仰 」

サムエル記上15:20-31 マルコによる福音書6:1-6


 主イエスの生まれ故郷ナザレでの働きについては、どの福音書もよい関係が生まれ

なかったことを記しています。「預言者故郷敬われず」と言うことわざがここから生ま

れます。後の教会では母マリアはよく知られているようにあつい信奉を得ますし、主

の兄弟ヤコブはエルサレム教会の中心になりますので、十字架と復活後の家族との関

係には変化があります。しかし、確かに、主イエスの家族にしても、ナザレの会堂に

集う人にしても、主イエスにつまずき、その不信仰は驚くほどのものと称されるので

す。マルコ福音書では、ガリラヤの湖の周辺で活動される主イエスの宣教の働きを伝

えていますが、12年間出血で苦しんでいた人の癒し、会堂長ヤイロの娘の癒しに続

いてこのナザレでの働きが記されており、そこに一貫して取り上げられている主題は、

「信仰」と言うことであるのに気づかされます。キリスト者の信仰はただ神の存在を

信じるとか、キリスト教の教理を受け入れるということより、もっと根源的に、主イ

エスとどのような関係を保つかにかかっています。ここでは、一貫してそのかかわり

方が問われているのです。ナザレの人たちの「驚くべき不信仰」とはどのような関わ

りだったのでしょう。

 主イエスが安息日に会堂で人々に話されたとき、人々は驚いて、「この人はこのよ

うなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われる奇跡

は一体何か」と問うところは自然の反応です。しかし、「この人は大工ではないか。

マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちはここで

われわれと一緒に住んでいるではないか」と続きます。彼らは、他の町の人の知らな

い主イエスの真実を知っています。わたしたちもここで初めて、主イエスの兄弟の名

前を知ります。しかし、彼らが知っている真実が「つまずき」になって、その手を通

して示される神の国のしるしを見えなくさせているのです。自分が知っている部分的

な真実に固執するゆえに、主イエスの真実の全体に対して心を閉ざしてしまう、確か

に、このような不信仰がわたしたちの中にも見られます。


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