アモス書3:3-8 マルコによる福音書6:6b-13
主イエスは12弟子を二人ずつの組にして周囲の町々に宣教のために遣わされます。 主は弟子たちを宣教者となるべく訓練されるのです。キリスト教会は礼拝の共同体で あるとともに、そこから遣わされ、宣教する共同体でもあります。わたしたちも伝道 者、主はどのように宣教者を養成され訓練されるのか、その基本がここに示されてい るようです。 主イエスは弟子たちを選ばれたのは、「使徒として任命し、あかれらをご自分のそ ばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであっ た」(3:14−15)と記されていました。ここで、その第二項と第三項との実地 訓練が始まったことになります。これと第一項、ご自分のそばに置くため、との関連 はどうなっているのでしょうか。宣教に遣わすこととご自分のそばに置くこととは相 容れません。しかし、そこに、宣教のために働くものが実感する秘密があります。主 から離れて宣教のための働きをすればするほど、主イエスはいよいよ近くに、自分の 内に働かれることを知ることになるのです。 主イエスが弟子たちを宣教に遣わすに当たって、二人ずつの組にしたという知恵の ほか、彼らが持つべき装備が何かを詳しく教えています。それは意外な指示です。旅 をするものが持つべき当然のものは持たせず、ただ、宣教の言葉と悪霊を追い出す権 能だけをもたせるのです。食料や杖、お金や袋など持ってはならないと言うのです。 どうしてか。弟子たちが携えているものが、彼らの行く先々で彼らが生きてゆくため の必要を満たすことを見通しておられるからでしょう。彼らが持っているものは、か たちあるものではありません。言葉と権能、しかも、それは主からあずかったもので す。それをもって、最初に受け入れてくれた家にそこを出てゆくまでとどまれと命じ られます。宣教の働きが、伝えるものの一方的な作業ではないことも見通しておられ ます。宣教の言葉、また悪霊を追い出す権能を必ず必要としている人があり、また、 それを支える共同の関係が生まれる、このことを身をもって経験させておられるので す。