エレミヤ書26:11-24 マルコによる福音書6:14-29
バプテスマのヨハネ、人々の心を神に向き変えて、正しく生きるように悔い改めを 促した荒野に叫ぶ声、の無残な死。しかも、ヨハネの復活のことも記されていて、主 イエスの死と復活と重ね合わせて、その死とは何であったのか、その復活の幻想のあ りようについて考えさせられます。 主イエスの評判を聞いたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、これはきっとバ プテスマのヨハネが生き返ったに違いないと、何度も強調しています。それは、彼の 心にやましさがあったからで、その疚しさの理由が記されています。彼の誕生日の宴 会で、兄弟から強奪した妻ヘロディアの娘サロメがみごとな踊りを踊ったというので、 何でも望むものを与えようと約束したところ、娘は母に相談して「バプテスマのヨハ ネの首を」と要求します。道にかなわない結婚をヨハネに指摘されてヘロディアはヨ ハネに恨みを持っていたからです。ヘロデは一座の手前、悩みつつもヨハネの首を切 らせ、それを盆に載せてサロメに与えた、そのような一件があって、ヘロデは主イエ スの活動の中に復活したヨハネを見ているのです。ヨハネの死の真の責任者は誰なの か、ヘロデかヘロディアか、サロメか、宮殿に集った客人か。酒宴の笑いと座興のた めに、裁判もなく首を切られたヨハネの重い命、この命を担う死はあまりにも軽々し く、このままでは天がゆるすはずがない、と思わせるような死、この死と主イエスの 死は重なるところがあります。誰もが責任がありつつ誰もが自分ではないと言うよう な人の罪を担った死、主イエスはヨハネの死をも自分に引き受けています。興味深い のは、ヨハネの復活信仰はヘロデから発信されていると言うことです。そして、その 理由はよく分かります。しかし、これは幻想に過ぎません。幻想からは何も始まって いません。主イエスの復活の現実性は、この復活幻想と重ね合わせると、ますますは っきりしています。復活の主との、幻想ではなく現実の確かな出会いなしには、新し く生きる人々の群れは起こるべくもないのです。