イザヤ書29:9-16 マルコによる福音書7:1-13
ガリラヤ湖の周辺の町々で神の国の到来を告げ、宣教される主イエスの歩み。そこ で、顕著に示されていることは群集の熱狂です。「その地方を走り周り、イエスがい ると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた」と。なにやら大災害後の緊急救助 センターのような様相です。冷静に眺めれば、主イエスによって世界に起こるはずの 神の国の到来、愛と義とが口づけし、全宇宙の調和が回復し、平和が満ちあふれる大 変革とははるかに遠い事態です。群集の期待に応えれば応えるほど、神の国の福音は 上滑りし、深く浸透しない様子を見ることができます。真の救いは、人間の期待と求 めで矮小化されているのです。 そのような群集の熱狂と平行して、「ファリサイ派の人々数人の律法学者がエルサ レムからきて、イエスのもとに集まった」という事態が報告されます。主イエスの活 動を見て「悪霊の頭が悪霊を追い出している」と批判したグループです。今度は、主 イエスの働きではなく弟子たちの状態を観察して批判します。「弟子たちの中に手を 洗わないで食事をする者がいた」というので、「どうしてそうなのか」と非難するの です。食事の前に手を洗うというのは、衛生上の理由からではなく、ユダヤ人の「穢 れ」と「浄め」に関わる律法から来ている習慣です。死体に触れることや血に触れる ことなどを穢れとして、これを避けたのですが、ファリサイ派の人々はとりわけ厳格 で、外出したあとは必ず水で清めてからでないとパンを食べなかったのです。そうす ることによって自分たちの敬虔を証しし、それを誇りとしていました。主イエスの弟 子たちがいかに粗野で、尊敬される人々の仲間にはとてもなれない様子がよく伺われ る話ですが、むしろ、主は律法学者たちの偽善性を明らかにされます。「あなたたち は受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」と。神の律法を自分の都合に合わ せて変形させ、付け加え、他者をさばき、自らの誇りを確保する、そこに巧妙な偽善 の姿を見ています。神の国の福音は、このような人間の世界の中で、もっと深く鋭く、 その実をあらわす歩みを必要としています。