レビ記19:1-18 マルコによる福音書7:14-23
エルサレムから来たファリサイ派の人々や数人の律法学者たちは、主エスの弟子た ちが洗わない手でパンを食べている、ということで、主イエスの働きを告発しました。 ユダヤのきよめと汚れをめぐる「神聖律法」は、生活のあらゆる領域にわたって、聖 なるものと汚れたものとの区別を設け、汚れを遠ざけるように導いていたのです。主 イエスは、この戒めを守る人々の偽善性、(表面の聖性を保つことによって内面の背 反が進行すること)を指摘するだけでなく、更に、ラディカルに、こう語られます。 「外から人の体の中に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から 出てくるものが人を汚すのである」と。この主の言葉によって、キリスト教会は食物 規定やきよめの律法から完全に解放され、過去のものとしています。汚れは外からで はなく心のうちから出る、このような人間の問題の捉え方をどのように理解すること ができるでしょう。 人間の十全性、本来性を損なうものとしてまずに第一考えられることは「病気」で す。「健康」が損なわれるとき人の生は阻まれます。病気の原因は、外因性、内因性、 心因性と区分けされるように外からのもの内からのもの、その相互作用です。もっと 人格的な領域で、関係の中で生きている人間の成熟を阻むもの、未成熟なものに固着 する原因は何か。現在大きな関心を呼んでいるのは「心的外傷」(トラウマ)と呼ば れるもので、傷つけられた過去の経験が狭い未熟な枠を心に形成しているというので す。これも、外からのものと内なるものとの相互作用です。では、「汚れ」とは何か。 これは、体の中や人間の関係の中で起こることではなく、創造者である神と人間との 間で起こること、霊的な領域に関わることです。人間の身体を損なうものを癒しても、 また人間の関係を正しても癒しえないこと、神との関係において正され癒されなけれ ばならないことです。主イエスは、まさに、ここに真の癒しをもたらすために、汚れ は外からではなく内から来ると語られます。内なるものの汚れ、「罪」を癒すために、 ここに、主イエスの歩みの方向が定まります。