7月20日
2008年7月20日

「 食卓の下の小犬も 」

詩篇127篇 マルコによる福音書7:24-30


 主イエスはガリラヤ湖のほとりを去ってティルス地方に行かれました。そこで出会

った異邦人、ギリシャ人女性の主の言葉を聞く聞き方には、特別のものがあります。

もはや悪霊の支配をゆるさない、自由をもたらす信仰のあり方を教えられます。

 汚れた霊に取り付かれた娘のために、癒していただきたいと懸命に願う女性、子育

てに悩む母親の心は、いつの時代も、どの国も同じです。必死のものがあります。し

かし、その願いに対する主イエスの言葉は意外です。「まず、子どもたちに十分食べ

させなければならない。子どもたちのパンをとって子犬にやってはいけない」と。子

犬とは、異邦人であるティルスの女性、あるいは、その娘のこと。子供たちとはイス

ラエルの人々のこと。ここには、民族主義者、差別主義者としての主イエスの心がの

ぞいているかのようです。ガリラヤでは押し寄せてくる群衆を見て「飼う者のない羊

のような有様を見て深く憐れまれた」と記された主の姿は、ここにはありません。ま

た、「外から人の中に入ってくるもので人を汚すことができるものは何もなく、人の

中から出てくるものが人を汚すのである」とすぐ前のところでファリサイ派の人々に

語られた主イエスの言葉とも矛盾します。ここには、わたしたちが想像し、期待して

いる主イエスではなく、予想もしない冷酷な主イエスがいます。この不思議な光景は、

わたしたちが信仰生活で経験する意外に現実的な経験ではないかということに思い当

たります。深淵にあえぐわたしたち、沈黙する神、更に追い討ちをかけられる裁きの

言葉。

 この物語の中で驚かされるのは、この現実に直面したシリア・フェニキアの女性の、

主の言葉の聞き方です。実に、彼女は、この言葉に希望を見出しているのです。「主

よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」と応じています。

朗らかに、ユーモアをもって。自分の現実を正しく認めると共に、主の言葉の中にあ

る心を信じぬき、深く読み取っています。主イエスは、「その言葉によって、行きな

さい」といわれました。「既に、娘から悪霊は離れ去った」と。


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