8月3日
2008年8月3日

「 主 の 食 卓 」

詩篇107:1-22 マルコによる福音書8:1-10


 主イエスがわずかのパンと小魚によって何千人もの人を満腹にされたといういう話

が福音書には二回も出てきます。数に違いはあるものの、その構造は似ていて、元来

一つの伝承であった考える学者がほとんどです。しかし、それならなぜ、二度も同じ

話を繰り返しているのかの説明にはなりません。ある研究者は、先の5千人の給食の

場合、それにあずかったのはユダヤ人が中心であったのに対し、この度の4千人の給

食は異邦人も加えられているところに意義があると考えます。ティルスやシドン、デ

カポリスを通ってきた旅のあとですから、なるほどと思わされますが、確証はありま

せん。

 この4千人の給食の場合、主イエスの主導性が更に強調されていること、弟子たち

の戸惑いと不信がより顕著になっていることは確かです。「群集がかわいそうだ。も

う3日間もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま帰らせると、途中で

疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ているものもいる。」この主の言葉に言

い表されている状況を思いめぐらし、主イエスのもとに集まっている人々の飢えと渇

き、そして、それに対する主イエスの深い配慮に心動かされます。生かす言葉、回復

させる言葉、癒す真の言葉を求めて、人は何千キロもの旅をします。その言葉のもと

に何日も留まることをいといません。そのような恵まれた旅が出来るのは、日々の命

を支えるための心配をしなくてもよい恵まれた人だけ?いえ、主イエスは、貧しいわ

たしたちを霊の糧をもって養ってくださるだけでなく、また、身体の痛みも癒してく

ださり、空腹を満たす現実の糧をも与えてわたしたちを養ってくださることが明らか

です。

 弟子たちは「こんな人里離れたところで、どこからパンを手に入れますか」と尋ね

ます。パンを与えてくださる方が目の前にいるのに、もうそのことを経験しているは

ずなのに、別のところを探しているのです。それはわたしたちにもよく思いあたると

ころがあります。魂の救いが現実に生きる糧にならない見当違いの求め方が問題なの

です。


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