エレミヤ書17:9-18 マルコによる福音書8:11-21
飢えている4千人の大群衆を7つのパンとわずかの小魚によって満腹させられた主 イエスは、今度はファリサイ派の人々に「天からのしるし」を求めて試みられます。 天の神の確かな保証によって働いていることの証拠を示すように求められているので す。しかし、これまでに記されている主イエスの働き、目の見えない人が見えるよう になり、悪霊に憑かれた人が回復し、罪人が赦され、多くの人がわずかのパンと魚で 満腹させられる、これらの「しるし」の他に、一体どのようなしるしを見たら信じる も者となるのでしょうか。天が裂けて、「これはわたしの愛する子」という天からの 声が必要なのでしょうか。主イエスは、「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲 しがるのだろう」と深く嘆かれ、「しるしは決して与えられない」と言われます。そ うです、これは「今の時代」の問題なのです。つまり、どれほどの証拠が積み上げら れても、信じない者は信じない。神の愛の働きを信じ、その愛に立ち返り、その愛か ら人々の間で生きるようにはならないのです。どうしてか。自分の枠の中でしか生き ようとしないからです。信じたいものしか信じないからです。従って、ファリサイ派 の人々が求めている「天からのしるし」は、主イエスを信じ、従う者となるための 「しるし」ではなく、それによってイエスを試し、陥れ、嘲り、抹殺する証拠となる ものに過ぎません。他の福音書では、主イエスはこの求めに対して、「預言者ヨナの しるしのほかにはしるしは与えられない」と答えています。十字架と復活のしるしの ことを予告しています。 主イエスは、ご自分の弟子たちに「ファリサイ派の人々とヘロデのパン種によく気 をつけなさい」と語られます。そこに神の働きを阻止する人間の厚い障壁があること を知らなければならないからです。しかし、弟子たちは滑稽なほど全く見当違いの受 け止め方をしています。「まだ、悟らないのか」との主イエスの嘆き、それはわたし たちの時代にも向けられている主の思いであるに違いありません。