8月17日
2008年8月17日

「 何か見えるか? 」

創世記45:1-13 マルコによる福音書8:22-26


 ベトサイダの盲人の癒しの話は、7:31〜37の耳が聞こえず口も利けない人を癒され

た話と構造がほとんど同じで、主イエスのもとに障害をもつ人が連れられてきたこと、

主イエスはその人を外に連れ出して、そこで障害の部分に唾をつけ、手を当てて癒さ

れたこと、癒されたあと人にこのことを告げないように命じられたことが語られてい

ます。ただ、この目の不自由な人の癒しの場合、主イエスが「何か見えるか」と問わ

れ、はじめは「人が見えます。木のようにみえます。動いています」と言うおぼろげ

な見え方から、主が手を両目に当てられると、更にはっきり見えるようになった、と

二段階的に癒しが行われているところが違います。はじめ主のもとに「運ばれてきた

人」が、主に癒されて、自分の家に「遣わされた人」として帰されるのです。マルコ

による福音書はこの出来事を、ただ身体的な目の見えない人や耳の聞こえない人の癒

しの奇跡を伝えようとしているのではないようです。この二つの奇跡の間に、天から

のしるしを求めるファリサイ派の話や弟子たちの誤解などの話しがあって、「まだ悟

らないのか。目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか」との言葉が

あります。見える、見えない、聞こえる、聞こえないは、もっと広い意味で、主イエ

スによってはじめられている神の国の展開のさまを見ることができるか、その福音を

聞くことができるかが問われているのです。

 わたしたちも、本当の自分自身のこと、そして自分の将来、自分の終わりがどうな

るかについて、それをはっきり見たいと願いますが、それらについて盲目で、ずいぶ

んそれを見るために回り道をします。その盲目さのゆえに、人と運命に持ち運ばれま

す。しかし、主イエスにあって、神が共にいまし、主のみ手が差し伸べられるとき、

はっきり見ることができるものとなる、主はそのように働いてくださることを、わた

したちは信じることができます。兄たちに裏切られエジプトに売られたヨセフが、兄た

ちに再会するときに語ったことば、「わたしをここに遣わしたのは主です」と語るよ

うに、目が開かれるのです。


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