マラキ書3:19-24 マルコによる福音書8:27-33
フィリポ・カイサリアに向かう途上で主イエスが弟子たちに「あなた方はわたしを 誰と言うか」問われたこと、ペトロが「メシアです」と答え、それに続いて主が受難 の予告をされ始め、それに伴って、「自分を捨て、十字架を負ってわたしに従ってき なさい」という服従の勧めが語られる、この出来事は重要です。マルコ福音書はここ から、エルサレムに向かって、最後の十字架の死、復活に至る道を歩み始めることへ と大きく展開します。「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と言う言葉と共に 始まったこの福音書が、神の子イエス・キリストとは一体どのような神の子、キリス トなのか、「福音」とはどのような意味において福音なのか、その深い意味が明らか にされてゆきます。 主イエスは、「人々はわたしのことを誰といっているか」という問から、「それで はあなたがたは、わたしを誰と言うか」と言う問いへと発展させます。第一の問いは 第二の問いを引き出すための問いであるに過ぎません。「あなたこそメシアです」と 言う答えが引き出されますが、ここで、マルコによる福音書はマタイと違って、この 答えそのものにあまり重点を置いていません。ペトロのこの信仰告白より、主イエス ご自身の、エルサレムで多くのの苦しみを受け、捨てられ、殺されると言う受難の予 告を引き出すための役割を担っているようです。 それにしても、主イエスが、「あなたはわたしのことを誰と言うか」と言う問いは 不思議な問です。これは、日常的な会話ではありません。答えの言葉次第で、これま での関係とこれからの関係が決定されます。その告白から新しい関係がはじまるので す。そう考えると、わたしたちの方から、主イエスに「あなたはわたしを誰と言って くださるのか」と問うべきではないでしょうか。その答え次第によって、わたしの生 きる意味が決定されるはずです。しかし、主イエスはご自分の方から、この問いをわ たしたちに問われ、わたしたちの答えを待たれます。そして、暫定的な答えに過ぎな いわたしたちの信仰告白を、ご自身の歩みの中に伴わせてくださるのです。