19980809
1998年8月9日

「この世の子と光の子」

ルカによる福音書16章1−13


 主イエスは数多くのたとえ話をされました。人間の目には本来把握できない神の国

の生き方、ありようが絵本のように示され、わたしたちの日常の中で既に見ているも

の、聞いているものの中に神の国が映し出され、立ち帰るべき入り口が示されている

のです。

 不正な管理人の話。主人の財産を散財していることが露見された管理人が、くびに

なる前に主人から借金している人たちを呼んで小作の納付契約率を低くしたものに書

き換えさせます。すると主人は「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」

というのです。そして、「この世の子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢くふ

るまっている。・・・不正にまみれた富で友達をつくりなさい。そうすれば金がなく

なったとき、あなた方は永遠の住まいに迎えてもらえる」といったというのです。

 ガリラヤの民衆の生活をよく映し出している物語であることは確かです。たくまし

く、どこかあわれな汗くさい人間の生活が目の前に浮かびます。まさにこの世の子ら

の生活です。しかし、ここに神の国に生きるものも及ばない賢さがあることを見るよ

うにと主イエスが語っておられます。どのような賢さでしょうか。この管理人の考え

と行動は、それまでの生活がまもなく破局を迎えることが明らかになった人間の行動

です。破局を前にして、それまでの生き方を転換しているのです。主人の財産を勝手

に散財する生き方は変わりません。しかし、主人の財産を使って、主人に借りのある

人たちに、この人たちの得になることを考え、この人たちが喜ぶことを考えて行動し

ているのです。それも自分のためです。首になったときに迎えてもらおうという魂胆

は見え透いています。しかし、ここに光の子が学ぶべき知恵、賢さがある。終極を前

にして、これまでの生き方では全く収支がつかないことになってしまっているとき、

本当に自分を迎えてくれるところに向かって転換することです。わたしたちは最終の

破局なしに永遠に生きていくと考えることが全く閉ざされているとき、どこにむかっ

て転換を図るのでしょうか。

 主イエスは、この不正な管理人のような苦し紛れの知恵を光の子に求めているわけ

ではありません。「重荷を負うものはわたしのもとに来なさい」と語られるのです。

「悔い改めて、福音を信じなさい」と。

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