イザヤ書50:4-11 マルコによる福音書8:31-9:1
フィリポ・カイサリアに行く途中で、主イエスが弟子たちに「あなたがたはわたし のことを誰と言うか」と言う問いから、受難の予告、そして、「十字架を負ってわた しに従ってきなさい」と言う勧めにいたるマルコ福音書の真ん中に記されている一連 の会話は、キリスト者にとっていつも新しく聞きなおし、問い直して、「神の子イエ ス・キリストの福音」をわたしたちはどのように聞き、また従っているかを点検する ことばとなります。 ペトロの「あなたこそメシアです」と言う答えに続いて、「人の子は長老たち、祭 司長、律法学者らに多くの苦しみを受け、捨てられ、殺され、三日目に復活する」と の受難予告がなされます。ここから3度にわたって受難の予告をされます(8:31;9:31;10:33を参照)。 その予告は一貫しており、回を増すごとにリアルさをまし、その通り実現してゆきま す。3度とも「人の子」の受けなければならない定めとして語られています。主イエ スは自分のことを「人の子」と称していましたが、ここではとりわけ旧約聖書の中に ある終末のときに現われるメシア像としての「人の子」と関連していると見るべきで しょう。ダニエル書7:13以下に終末時の天で起こる事象として、「”人の子”の ようなものが“日の老いたる者”の前に来て、権威、威光、王権を受けて諸国、諸族、 諸言語の民は皆彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は亡びることはない」 と記されています。しかし、主イエスは全くちがった人の子・メシア像を語っている のです。ペトロがイエスを脇に引き寄せて諌めはじめたのも当然です。しかし、ここ に人間が期待し、また想定するメシア像と、神からの真の救いをもたらすメシア像と の相克があります。人間の思いと神の思いの相克です。人の子の受ける苦難と死が予 告されているだけでなく、三日目に復活することが必ず記されているということは、 そこで主イエスがこれから向かい合おうとしていることは、死を死たらしめる死の力、 生を破壊する根源の力、罪そのものであり、その力を打ち破ることであることも明ら かにされていることを見ておかなければなりません。