9月14日
2008年9月14日

「 神に背いたこの罪深い世に 」

ダニエル書3:13-30 マルコによる福音書8:34-9:1


 主イエスはご自分の苦難と死、そして復活の予告をされたあと、「わたしに従って

きたいと思う者は、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と

語られました。主の十字架の死と復活は、わたしたちの生き死に直接にかかわること

となっているのです。この勧めは、キリスト者のマグナ・カルタ(大憲章)とも言わ

れ、キリスト者の歩みの向かうべきところは、まさにここにあります。しかし、どの

ようにすることが自分を捨てることであるのか、自分の十字架を負うとはどういうこ

となのか、これには答え尽くすことが出来ません。生涯の終わりまで絶えず課題とし

てあり続けるでしょう。

 十字架を負えとの主イエスの招きは、マタイやルカの福音書には別の言葉と結びつ

いています。「もし誰かがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、

姉妹、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえな

い」(ルカ14:26、マタイ10:34〜39参照)と。「自分を捨てる」ことは、

最も親しい人間の関係、家族との絆でさえ「憎む」ものとならなければならないこと

意味する、驚くほど厳しいものです。つまり、わたしたちが安心して生きることがで

きる究極の居場所であるはずの、自分自身と家族、友人との絆を「捨てる」ことが求

められているのです。「捨てる」と言う言葉は「否認する」「知らないという」言葉

にも訳され、十字架の場面でペトロがイエスを三度知らないといったときに使われて

います。よく考えると、わたしたちは、自分の自身のことや最も親しい人についても、

「知らない」といいたくなるときがあります。自分には責任がもてないのです。究極

以前のものを究極のものと考えてその絆に依存することによる大きな失望と挫折は、

この世で誰も経験します。とすると、「自分を捨てて主に従う」ことは主に「委ねる」

ことと同義です。また、「疲れた者、重荷を負う者、だれでもわたしのもとに来なさ

い」というあの慰め深い招きの言葉とも重なります。そこで従い、生きる、のでなけ

れば、「神に背いたこの罪深い世」において、命を得ることはできない、と。


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