8月10日
1997年8月10日

「世の光であるキリスト」

ヨハネによる福音書8章12−20


 「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を待つ」

と主イエスは語られます。「命の光」ですから、これは物理的な人間の目に知覚され

る光ではなく、イエス・キリストを知り、イエス・キリストに従って歩むときに、光

のうちを歩むとしか言い様のない経験をすることを明らかにしています。「光」が闇

の中でかがやいており、その恵みとまことを感じるために、闇がどれほどこの世にお

いて深いかについての認識が必要です。

 「コルチャック先生」の演劇を見ました。ナチスの支配下におかれたポ−ランドで

ユダヤ人のみなしごの施設「子どもの家」の責任を持ち、子どもたちと一緒にワルソ

−・ゲット−での厳しい食糧難を経験し、やがて自らは特赦を得たのに、子どもたち

と一緒にガス室に赴いた医者にして児童文学者のドラマです。暗闇の中に浮かび上が

る灰色の石の墓標、白い頭巾をかぶった子どもたちのシルエット、石のような沈黙。

このドラマは深い闇からはじまります。600万人ものユダヤ人が殺されたあの大虐

殺の一断片に過ぎませんが、ここにも人間の世界の中に闇が支配することがあること

の確かな証言があります。ひとりの独裁者が悪にとりつかれたというだけでなく、一

人の狂気は次々に連鎖して、それぞれが自分の手で他者を苦しめていき、大量に人間

をガス室に送り込んでいくという構図があります。この時代に、「子どもでいること

は幸せなことなのか」というコルチャック先生の言葉が胸に響きます。同じような闇

の支配する中で子どもの命がぼろぞうきんのように捨てられていく状況は広島でも長

崎でも、南京でもカンボジアでもボスニアでもザイ−ルでも、続々と人間の歴史は闇

の中に沈黙する墓標を産み出し続けているのです。この時代に子どもたちと共に歩み、

子どもたちとともに死ぬことを選び取る勇気を持つことができるか・・・。闇は遠く

に出かけなければ見えないものではありません。わたしたちの周囲に、またわたした

ちの心の中に見ることができます。

 ヨハネ福音書で主イエスがすべての人を照らす真の光であって、「わたしに従うも

のは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」というのはこのようなこの世の闇を経験する

中でイエスに遭遇した人たちの証言です。興味深いことは、一連の主イエスが光であ

るとの証言の中で、イエスがもっとも世の光として、その光をあらわにするのは十字

架の恥辱と死を引き受けるとき、そして復活の時なのです。一粒の麦の死、ご自身の

者たちを愛して最後まで愛し通されるときです。
秋山牧師の説教集インデックスへ戻る

上尾合同教会のホ−ムペ−ジへ戻る