民数記12:2-16 マルコによる福音書9:30-37
二度目の主イエスの受難の予告が語られます。ここでは、「人々の手に引き渡され、 殺される。殺されて三日の後に復活する」という簡単なものですが、よく注意してみ るとこの原文は不思議です。主語が次々に変わっているのです。「人の子は・・・ 人々の手に引き渡される。人々は彼を殺す。殺したのち、三日目に(神は)よみがえ らせられる」となります。主イエスは御自身が歩むべき道について語っていますが、 それは自分を捨てて他者の手に自分の生を委ねる歩み、神と人との必然に委ねる決意 を明らかにしているのです。弟子たちはこの言葉の意味が分からず、怖くて何も尋ね ることができませんでした。重い沈黙が支配します。 カファルナウムで今度は主イエスが弟子たちに尋ねます。「途中で何を議論してい たのか。」弟子たちは何も答えることができませんでした。「だれが一番偉いかをめ ぐって議論し合っていたからです。ここでも重い沈黙が支配します。十字架への道を 進んで行かれる主イエス・キリスト、その意味を理解することができないばかりか、 だれが一番偉いかをめぐって気まずい議論をし合っている弟子たち。人間的な、あま りにも人間的な姿が露呈されて、ここに深い溝が生まれています。わたしたちの信仰 の歩みも、まさにこの沈黙と溝の中であえいでいるようなものです。主イエス・キリ ストの贖いの恵みは遠くで鳴り響いていますが、この世に生きるわたしたちは自分の 世界を造るための戦いに終始しているのです。 しかし、この重い沈黙を破るのは、いつも、主イエスの側からです。沈黙を破って、 御自身の歩みに寄り添わせようとされます。主イエスは受難の予告をされるときは、 それと共に必ず語られること、「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、す べての人に仕える人になりなさい」、この逆説的な生き方です。神の子が人の子とし て低く下り、人々の罪を負って死ぬことから復活へ向かう、その逆転した歩みから生 まれる命への道に倣うことが求められるのです。