創世記2:18-25 マルコによる福音書10:1-12
十字架に向かって歩みをはじめられた主イエスの旅の途上で、ファリサイ派の人々 が「夫が妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか」と、離縁の問題につい て質問します。どういう意図をもってファイリサイ派の人々はこの質問をしたのか、 「イエスを試みようとして」と記されていますから、バプテスマのヨハネがヘロデの 離婚問題に対して非難したことで命を落したのと重ねあわすと、極めて危険なわなを 仕掛けているのは確かです。主イエスはこの問いに対して、モーセの律法にどう書い てあるか、と問い、離婚がゆるされているとの答えを得ると、モーセは人間の頑固さ に適応させるためにそれを許可したのであって、もっと根源的に神が男と女に造られ た創造の原理に照らして考えるべきだと教え、そこから、「神が結び合わせてくださ ったものを、人は離してはならない」という決定的な言葉を語られます。結婚式のと きによく語られるみ言葉ですが、この言葉は、これから結婚する人たちや、離婚を経 験した人たちを戒めたり、さばくために語られている言葉ではありません。 この言葉から学ぶべきことは、まず、その問題の扱い方です。結婚をめぐる問題、 夫婦の関係、破れはまさに現代的な問題ですが、主イエスは、関係の破れの現実から 問題を考え、その現実的な妥協点を考えるという考え方をしません。そもそも男と女 がなぜ造られ、なぜ結婚するのか、結婚、更に視野を広げると人間の交わりは、なぜ、 どこから、起こるのかの本質、創造の原理を、人間の意志や衝動に発するものとしま せん。創世記の言葉は、神が人間を男と女とに造られたのは、それによって神のかた ちを現すため、と記しています。生物世界のオスとメスの原理とは違った理由が示さ れています。男と女の交わりの一体性において、神に似たものとなるというのです。 そこから、主イエスは「神が合わせてくださったものを人が離してはならない」と言 われるのです。わたしたちの交わりがこのような根源性をどれほど実現しているか、 どんな人にも、主イエスのとりなし、罪の赦し、救いが切に求められます。