イザヤ書57:14-21 マルコによる福音書10:32-45
神のみ子が人間の救いのために低く降り、人と同じ姿になり、十字架の死に至るま で従順であられた、そのような主イエスの歩みのはじめを覚えるとき、クリスマスに 向かってわたしたちは歩んでいます。神の側でそのように新しいことを起こしてくだ さったことによって、人間の側からも新しい変化が起こらなければならない、この促 しがわたしたちの中でどれほどの根源的な促しとなっているでしょうか。 エルサレムに向かって自ら先頭に立って進んでゆかれる主イエス、「弟子たちはそ れを見て驚き、従う者たちは恐れた」と語られます。そこには先を行く主イエスと従 う者たちの間に違う心が働いているのです。立ち止まって主は、三度目の受難の予告 をします。受難の場所がエルサレムであること、ユダヤの民の代表者らに死刑を宣告 されたあと異邦人に引き渡され、異邦人は鞭打ち、嘲り、唾をした上で殺す、とこれ までの予告に加えて、更に克明にその受難の情景や場所が特定され、これが単に観念 上の決意ということではなく、歴史的な出来事として起こることを明らかに告げられ るのです。このような予告に対して興味深い反応が起こっています。ヤコブとヨハネ がひそかに主にお願いをするのです。「栄光をお受けになるときわたしたちを一人を 右に、一人を左においてください」と。この願いをどのように理解すべきか。主イエ スに従う信仰者の従い方にメスが入れられます。この反応は一回目のペトロのものと は違います。ペトロはイエスを脇に引き寄せて諌め、「サタンよ、退け」と激しく叱 られています。ペトロは主の苦しみと死の予告を聞いて、復活の調べを聞き逃してい るのです。ヤコブとヨハネの決意は、主の死の現実に向き合っていません。復活の使 信を自分の栄光の機会と捉えているのです。それに怒る他の弟子たちも同罪です。わ たしたちの罪を救う主の歩みは、このまことに人間的な反応の狭間の道を進んでゆか れます。「わたしが来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの 人の身代金として、自分の命を与えるためである」こと明らかに示しつつ。