12月14日
2008年12月14日

「 目が見えるようになりたいのです! 」

士師記13:2-14 マルコによる福音書10:45-52


 クリスマスは天使が歌い、星が馬小屋を照らし、母マリアにいだかれた幼子イエス

のまるで夢のような世界の中に人々をいざない、子どもの笑顔と共に現実の暗い世界

を忘れさせるしばしの時を提供する祭りではありません。「昔いまし、今いまし、や

がて来たりたもう」神のみ子、主イエス・キリストをわたしたちのうちに見出し、ま

た待ち望むときです。

 主イエスは仕えるものとして、僕として生きるようにわたしたちに教えられました。

そして、「わたしが来たのも仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人

のための身代金として自分の命を与えるためである」と語られました。多くの人に仕

える生き方、謙遜な生き方をするように勧めることは珍しいことではありません。人

間関係を円滑に進めるために、それは当然のことだからです。しかし、僕として多く

の人に仕えるように勧めるすすめが主イエスの歩みに倣うところに根拠を置くとなる

と、それは単に生きる技術としての謙遜の教えとはまったく違ってきます。「贖いと

して命を与える」ところに向かう「仕える道」なのですから。それは主イエスの十字

架への歩みに倣う歩みにほかなりません。そのことが語られたすぐ後で、マルコ福音

書は盲人バルテマイの癒しの出来事が語られています。エリコからエルサレムに向か

う道の傍らで物乞いをしていたこの男は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんで

ください」と叫び続け、ついに主イエスによって目を開けてもらった人の癒しの出来

事です。「ダビデの子」という主イエスへの呼びかけ、これは危険な呼びかけです。

民衆の反乱と抵抗を呼び覚ますメシア期待が込められています。バルテマイが期待し

たのはそのメシアの支配が自分の目をも開かせると信じたのでしょう。そして、主イ

エスはこの叫びに立ち止まり、その目を明るい世界に向かって開かれました。信じた

通りになったのです。しかし、開かれた目で、主イエスに従って行ったこの人が見た

のは何か。ここから展開するマルコ福音書の記述は、主イエスの最後の一週間のこと

です。人々の罪を負って十字架にかけられ、そして三日目に復活する、その主イエス

の出来事なのです。


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