ミカ書4:1-3 マルコによる福音書11:1-11
ロバに乗ってエルサレムに入ってゆく主イエス、これは受難週の初めの情景です。 しかし、この終わり情景はその生涯のはじめの情景と重なります。救い主の「しるし」 は、どちらもわたしたちの目には簡単には分かりません。 飼い葉おけの中に寝かされている幼子、それが「救い主のしるし」だと天使は羊飼 いに告げました。羊飼いたちは急いでベツレヘムの街に行って、告げられたとおりの 幼子を見つけて、喜んで礼拝したのです。エルサレムに入城する主イエス。借り物の 貧相な子ロバに乗ってエルサレムに向かう急な坂道を登って行きます。群集は上着や 小枝を道に敷き、「ホサナ、ホサナ」と王を迎えます。何と地上の王の姿とはかけ離 れていることか。更に、生涯の初めの情景も終わりの情景も、どのような救いをもた らす方であるかについて、これも両価的に描かれています。マリアに告げられた生ま れ出る子の像は、「偉大な人、いと高き子、父ダビデの王座を神から与えられ、聖な るもの、神の子と呼ばれる」者です。マリアも期待を込めて、「主はその腕で力を振 るい、思い上がったものを打ち散らし、・・・身分の低いものを高く引き上げ・・・」 と讃美しています。しかし、またザカリヤやヨセフには生まれ出る子は「自分の民を 罪から救う者となる」との約束が告げられ、その意味で「イエス」と名づけられてい ます。力強く上から支配する救い主と、下から罪人を救う像とが並列されているので す。エルサレム入城の光景もこの二重のイメージが交差しています。「主の名によっ て来るものに祝福あれ、ダビデの子にホサナ」という群衆の叫びは、明らかに王とし て上からの支配を求める期待が込められていますが、ロバに乗る主イエスは、傷つい た葦を折ることなく、消えかけている燈芯を消すことのない貧しさと柔和と平和のイ メージです。実に主御自身が、このようなな姿でご自身をあらわし、わたしたちの内 に最も根源的な救いをもたらしてくださるのです。わたしたちの内に示されている救 い主到来の「しるし」を見誤ることなく捉える信仰の目はどこまでも深くされなけば なりません。