イザヤ書55:6-13 マルコによる福音書11:12-14、20-25
主イエスの最後の1週間のなかで「いちじくの木を呪う」話は、最も不可解な話で す。空腹をおぼえた主イエスが道端にいちじくの木があるのを見て、実がなっていな いかと近づいて見ると葉ばかりで何もかなったので、「今から後いつまでも、お前か ら実を食べるものがないように」といわれ、翌日にはその木が根元から枯れていたと いうのです。「いちじくの季節ではなかったからである」と注釈つきで。一体何のた めに、このような腹立ちまぎれに見当はずれのものに怒りを発散させるような子ども じみた行為をしなければならなかったのか。主イエスがこんな権威や奇跡を起こす能 力を誇示するとしたら、それはわたしたちの模範にはなりません。 この出来事を理解するためには、間に「宮清め」の話が挟まれていることに注目し なければなりません。両者共に主イエスの預言者的な象徴行為で、わたしたちの理解 や予想を超える衝撃的なかたちで、この世の時間の流れの中に永遠のときの開始を告 げ、エルサレムの神殿で行われている行為全体に対する裁きと終わりを告げているの です。主イエスの空腹、これは、肉体的・生理的なものというより霊的なものでしょ う。無花果、これは旧約以来ぶどうと共にイスラエルの民を象徴する果物で、その豊 かな実りは神が支配している世界のまことの平和を象徴しています。神への真実を信 仰が失われるとき、その実は不毛となるのです(ミカ書4:4;7:1;エレミヤ24:1−10 etc.参照)。 「いちじくの季節ではなかったからである」と主イエスの行為の不自然さが浮き彫 りにされていますが、ここに、この行為を理解する鍵があります。いちじくにはいち じくが実を実らせるときがあります。わたしたちにもわたしたちのときがあって、 「まだそのときではない」とか、「機が熟したら」と言って自分の設定した時の中で 生きています。しかし、神の時は人間の時とは違います。思いがけないときにそのと きがやってくるのです。その時に備えていなければ、突如として滅びが及びます。主 イエスは、自然の時の中に生きているいちじくにさえ、神の時に生きることを求めて います。いわんや、人間においておや。