エフェソの信徒への手紙3章7−13
キリスト者の平和についての責任の取り方について考えるとき、今わたしたちが一 緒に取り組んでいるエフェソの信徒への手紙の中心的なメッセージ、「キリストはわ たしたちの平和」は直接関わってきます。人間はだれでも平和で安全な生活を求めま す。それらは基本的な人権を構成する重要な要件です。しかし、キリスト者の平和へ の祈りと責任は、わたしたちの基本的な人権を守るために平和を求めるというのとは 少し違ったかたちで担われます。キリストが平和であって、わたしたちの間にある敵 意という隔ての中垣を取り払ってくださって和解をさせてくださり、二つのものを一 つにしてくださったことに即して、敵対する関係のただ中で和解を生み出していく働 きをすることです。 エフェソ書の著書はこの「キリストの平和」がどのように「キリスト者の平和」に なっていくかについて、その道筋を明らかにしています。まずそれは「啓示によって、 わたしに」示されたことでした。また「今や、聖なる使徒たちや預言者たちに啓示さ れた」神の秘められた奥義・神秘でした。しかし、それはパウロや使徒たちに特別な 任務を課すものでしたが、それが伝えられるべき方向は「あなた方・異邦人」でした。 平和の福音はこのように停滞していません。仲間の中だけでひそかに語られる神秘で はなく、最も遠い関係、敵対する関係の中でこそ語られ証される「福音」となってい るのです。さらに、この恵は、「今や教会によって天上の支配や権威に知られるよう になった」という不思議な言葉によってその波及する範囲がどれほど広範であるかを 明らかにしています。この世界を構成している見えるもの見えないものの根源にある 支配力、権威にもキリストによってもたらされる和解の福音は力を持っていること、 しかもそれは教会によって伝えられるものだというのです。キリストの平和は静止的 なものではありません。必然的に運動を伴います。それはキリスト者の平和にしてい きます。そしてさらに、キリスト者の平和は、敵対するものとの間に和解を生み出し つつ世界の平和をつくりだしていきます。初代の教会においてユダヤ人だけでは教会 はできない。異邦人と共にある教会がキリストの教会といわれるべきものだと主張し て、固い壁と枠を打ち破っていったような猛烈な運動です。いま世界で互いに争い合 っている状況のただ中にも、この和解の祈りと働きが生きています。さて、わたした ちはどこでこの運動を確認するのかキリスト者一人一人の課題です。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る