ハガイ書1章1−15
これからしばらく主日礼拝の説教では教会堂を建てることについて、旧約・新約の みことばをひもときながら、それがどのようなことであるのかについて考えたいと思 います。具体的にわたしたちの教会がそのような課題を持って計画し実行に移そうと いうとき、その深い必然性を理解し、心から奮い立たせられるために、何よりも御言 葉を聞かなければならないと思います。 ハガイの預言の言葉を聞くことからはじめましょう。ハガイは神殿がバビロンによ って破壊され、すべての聖具が持ち去られてしまってから70年、捕囚の民が再びユ ダヤの地に帰還して再び新しい国づくりを始めた時代の預言者です。貧しく過酷な生 活、周辺の民の様々な妨害のの中でかろうじて生きているような人々に対して、まず 「主の家を建てよ」と強く叫んで人々の心を奮い立たせ神殿の建設に大きな働きをし ました。 ハガイの訴えは、人間的な状況判断に対して真っ向から対決を迫るものでした。 人々は自分の生活の再建に精一杯であるし、周囲の民の妨害もひどいと、誰もが今は そのときではないと思うようなとき、ハガイは思わぬ方向から主の言葉を伝えるので す。「お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった 家に住んでよいのか。自分の歩む道に心を留めよ」と。何よりも、自分の歩む道に心 を留めること、ここから主の家を建てる必然性が見つかるはずだといっているのです。 まず自分の生活の安定があり、そのうえで、神の祭儀や礼拝が整えられるといった順 序でものを考えていてよいのか、何がはじめであり、柱であり、中心であるかがあい まいであり、的外れになっていないかと反省を迫っています。そして、その中心的な ものが周辺的なものになるとき、「種を多く蒔いても刈り入れは少ない。食べても満 足することなく、飲んでも酔うことがない。衣服を重ねても暖まることなく、金を稼 ぐものが稼いでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ」といいます。生きることの 充実・満足・喜び・実りといったものに見放されているの何故か、と現実の生活の検 討を迫るのです。 「山に登り、木を切って、主の家を建てよ」という呼びかけは、このように一人一 人の生活者に対して、自分の生活の検討と反省を迫るところからなされています。ハ ガイのこの呼びかけが総督や大祭司、そして残りの民みんなの心を奮い立たせ、神殿 の建設に向かわせたのです。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る