創世記2章4b−17
創世記の創造物語と信仰の父アブラハムの生涯との講解説教にとりかかります。 みことばによって、わたしたちの出発点が何であるかを明るく照らされ、そのよう にしてわたしたちの今と、わたしたちの終わりとに明るいものでありたいと思いま す。 J典の描く創造物語の出発点は荒涼たる砂漠です。潤いのあるもの、生命的なも のは何もない荒涼たる大地、その大地を命あるもの、潤いのあるものに変えていこ うとされるのが主なるヤハウェ、「わたしは有る」と語られる神です。そのために まず最初につくられるのは、霧、あるいは地下の水。それで地の全面が潤されます。 そして人、耕す人です。人間は神の創造された世界の中でもっとも中心的な存在で す。人は耕す使命を与えられています。 そこであの有名な、また聖書の人間理解を決定的に方向付けることば、「主なる 神は大地の塵から人を形作られた。その鼻に命の息を吹き入れられた、そこで人は 命あるものとして生きるようになった」。 この言葉の中に、徹底したリアリズムの精神で人間を観察している視線を感じま す。人間は荒涼たる大地の塵で形作られたもの。美しい女性をたちどころに骸骨に して見せるス−パ−リアリズムよりももっと徹底したもの。誇り高く自信に満ち、 わたしはこれによって生きていると考えているようなことを、塵からできて、また 塵に帰っていくわたしという土台から検証するときに、それに耐えるような誇りや 生き甲斐を持つことができるでしょうか。わたしたちが熱心に取り組んでいること も、命がけだと思っていることも、もうもうたるほこりを巻き上げているにすぎな いと反省することができない精神は、聖書の明るさをさけて暗がりの中で、酔って 寝ている人のようです。 しかし、人間が生きるようになるのは、もう一つのこと、神ヤハウェが命の息を 鼻に吹き入れることによってです。生命の本質は生きて動く者です。「命あるもの としていきるようになった」というのは、「ネフェシュ」へと生きるということで、 ネフェシュとは「魂」とか「心」と訳されますが、元来は「のど」のことです。食 物に飢え水に乾き、息が出入りする「のど」です。人間の心の本質はのど以上のも のではない、その「のど」を持つものとして、真に満たされることにむかって生き るのです。神の命の息をわたしたちの喉に吸い込まなければ本当にいきたことには ならないというのは、わたしたちのつくられた方を見れば当然のことになります。