エフェソの信徒への手紙3章14−21
エフェソの信徒への手紙は教理的な説教の前半部分から実践のすすめにいたる後半 部分の結節のところにとりなしの祈りがあります。これは「あなた方」のための祈り です。他者のためのとりなしの祈りです。しかしまた、これはわたしたちのための祈 りでもあります。ここで祈られている内容は、一見漠然としていて抽象的でよくわか らない感じがします。しかしこのような抽象化に至る過程は激しい信仰の闘いがあっ たことを想像させます。ですから、どれもきわめてキリスト教的な含蓄の深い内容を もっており、そのように祈ることができるということの恵みが恵みとして味わえるよ うになるためにはわたしたちにも祈りの修練が必要です。 「内なる人が聖霊によって力を与えられて力強くされるように」。ここでいう「内 なる人」とは目に見えないが人が行動を起こすときの基盤となるところ、人としての 人格の中心、心とか良心といわれているものとほぼ同じです。この部分に神の霊が働 きかけて力を与えられ、新しい清い生き方へ変えられていくようにと祈ることです。 「外なる人は滅びても内なる人は日に日に新しくされる」といわれます。外面の体裁 だけが整えられるのではなく、その場限りの必要が満たされるのでもなく、まさに「 内なる人」が聖なる霊によって呼び覚まされなければ、敵対するもののただ中で平和 の福音を証しするものとなることはできないのは明らかです。 次に、内なる人が強められるということは、「信仰によって心の内にキリストを住 まわせる」ことであることが明らかにされ、そのことを祈り求めています。キリスト は過去の人ではなく今ここにいる人、また、わたしたちの向こう側にいる人ではなく、 心の内に住む人となることができるのです。外にいますキリストを内にいますキリス トへと変えてくださるのが聖霊であり、聖霊がわたしたちの心の内に信仰を起こして くださいます。 そして更に、キリストが心の内に住むときに「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」 者になるのです。自動的になるのではありません。祈り求めることによってそのよう に動かされていくことができるのです。何よりもここで愛が取り上げられ、愛に根ざ すこと、愛に立つことが求められることは意味のないことではありません。平和の死 の福音を担い、平和の使者として生きる人、その集まりである教会は、キリストがそ の内に住んでおられることを何よりも愛によって現すのでなければならないからです。 知識や敬虔さ、行動ではなく、愛です。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る