出エジプト記5章1−14
わたしたちの教会の礼拝堂の原型は、イスラエルがモ−セに率いられてエジプト を脱出し、荒れ野の放浪の旅をしたあの時代の「会見の幕屋」での礼拝に行き着き ます。出エジプト記やレビ記やその他の箇所にうんざりするほど詳しく事細かに、 その天幕の作り方や、その中で行われることについて規定していますが、それらを とおして伝えられていることは、唯一の天地の造り主である神との交わりのなかで 生きる主の民にとって、聖なる場所とはどのようなところであるかについてです。 心が洗われる場所、とか、自分を見直すところとか、深いいやしを経験するところ など、聖なる場所・空間にたいする求めは現代人にとって熾烈なものがあります。 旧約の民はどのような空間を聖なるところとしたのでしょうか。 まず、「会見の幕屋」と呼ばれている言葉に注目しなければなりません。それは 一方的に人間が神を感じ畏れる場所、あるいは人間の必要を満たす場所ではありま せん。神が人と出会い、人に語りかけ、戒めを与え、訴えを聞く、神の指定による 会見の場所なのです。「主はその友と語るように、顔と顔を合わせてモ−セと語ら れた」(出エジプト33.1)という不思議な言葉。それほどに、見えざる天と地 の造り主である神が親しくその民の間に住み、導いてくださることの中心的な場所 がこの荒れ野を旅する共同体の「会見の幕屋」です。 また、この幕屋は、奴隷の家エジプトから解放され、シナイ山において神との特 別な契約が結ばれたすぐ後に、これを造るようにと神から指示されています。「わ たしはあなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した神である」という宣言、こ の歴史的・現実的な出来事においてご自身を顕される神が、この天幕において民と 出会い、契約の恵みを絶えづ思い起こすようにされるのです。人間の必要が神殿を 造るのではないのです。 更に、この幕屋の中心に据えられるのは神の像ではなく、金の子牛でもなく、契 約を刻んだ石の板を入れた箱です。これを「贖いの座」といって、ここで子羊の血 が注がれ、この上から「あなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることを ことごとくあなたに語る」といわれています。真実と義を持って解放へと導かれる 神とその神に導かれるものにふさわしい確かな歩みが記されているものの上で神と の交わりがあります。 まさに、新約の教会が主イエス・キリストのみ言葉と十字架の死を覚えるパン裂 きを中心において、主を讃美し礼拝し、そこから全世界に遣わされたことに通じま す。