創世記2章18−25
創世記によって知る世界と人間の始まり・・・神ヤハウェイは地の塵で人を形づ くり、息を鼻に吹き入れて、人は生きたものとなりました。エデンの園に人を住ま わせ、そこを耕させ、荒涼たるところを命と潤いのあるところにしていこうとされ ました。しかし、これで神の創造の業(わざ)が終わったのではありません。そこ では、人間はまだ人間として完成していないのです。そのことを、神ヤハウェイが 明らかに知って、語っています。「人は一人でいるのはよくない。彼のためにふさ わしい助け手をつくろう」。人はふさわしい助け手が必要だと深く理解し、ふさわ しい助け手を造ろうと決意されるのは、人自身ではなく、神ヤハウェイです。 わたしたちは孤独を恐れます。共に生きるものを必要としています。孤独を恐れ るあまりにやみくもに群れ、自分を殺して順応します。また、わたしたちは群れて 画一的に生きているものを軽蔑し孤高を保つことを誇りとします。また、隣人との 一言一言の交わりに非常に気を使っています。このようなわたしたちのありようを、 聖書は自然のこと、本能的なこととして片づけることをしないのです。人はふさわ しい助け手とともに生きることなしに休らうことはないものとして神ヤハウェイに 造られている。また神がその助け手の必要を認めて、造って、連れてきて下さると いうのです。 「ふさわしい」ということばは、「都合のいい道具」という意味ではありません。 「前にたつもの、見合うもの、生き生きとしたもの」という積極的な意味と同時に、 「同等のものとして立ち向かい、対抗するもの」という否定的な意味も含んでいま す。「人はこのようなふさわしい助け手」と一緒に生きることなしには人として生 き、荒涼たるところを潤いのある命溢れるところにすることはできません。神ヤハ ウェイがそのことを知って下さっており、そのような助け手を造ってくださるので す。そこで野のあらゆる生き物、空の鳥がつくられ、そして人を深く眠らせて、人 の肋骨から神様の最高傑作、女−イシャ−が造られるのです。 わたしたちは、そのように自分の限界を知り、そのように自分と共に生きるもの、 生きる人、隣人を受け入れるところから出発しているでしょうか。また、主がその ようにふさわしい助け手をわたしにも備えて下さることを期待し、感謝するところ に、わたしの「始め」をおいているでしょうか。