イザヤ書56:1-8 マルコによる福音書11:15-19
主イエスの最後の1週間の2日目、「いちじくの木を呪う」話、そして「宮清め」の 出来事、この二つの話は、およそ主イエスの日ごろの言葉や行いからは想像できない、 激しく、暴力的な振る舞いで、み言葉に聞く者を戸惑わせます。エルサレムの神殿に 入るとそこでものを売り買いしている人たちを追い出し、鳩を売ったり両替している 者の台をひっくりかえしと、まさに狂気の振る舞いです。主イエスは、その行為を、 「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あな たたちはそれを強盗の巣にしてしまった」とイザヤ書56:7の言葉とエレミヤ書7: 11の言葉を使って理由づけています。 この神殿での突然の暴力行為によって何を目ざし、また、結果として招来したこと は何かと問うことがこの行為の意義を考える手がかりになります。主イエスがはげし く刃を突きつけているのは、神殿で商売している人々ではありません。神殿を司る祭 司長、律法学者たち、そして、その神殿での礼拝構造そのものであることは明らかで す。イザヤが預言していることは、ユダヤ人だけに閉ざされた礼拝から異邦人にも開 かれた礼拝をするときが来ること、また、エレミヤが告発していることは、神殿での 礼拝が少しも日常の生活の律法にかなった愛と正義を実現することになっていない偽 善的な礼拝で、そのような礼拝の場を「強盗の巣窟」と呼んでいます。「わたしの父 の家」で回復すべき姿は明らかです。この行為の結果は、「宮清め」どころではなく、 神殿の宗教の根本的な改革です。また、それによって祭司長や律法学者たちの明確な 殺意が生じ、引き返しのつかないところまで進んでいった、と言うことです。「宮清 め」は主イエスにとってご自身の死を招くためのパフォーマンスとなっています。こ れは明らかに主イエスの主導性において行われたことです。そして、その結果は、十 字架の死において神殿の幕が真っ二つに引き裂かれたこと、隔ての中垣が取り払われ、 律法の行いによるのではなく主イエスを信じる信仰によって義とされる福音が伝えら れるようになったことです。今、わたしたちの礼拝はすべての国の人の祈りの家とな っているか。