1月11日
2009年1月11日

「 祈り求めるものは、既に 」

詩篇139:1-18 マルコによる福音書11:22-26


「神を信じなさい。はっきり言っておく、だれでもこの山に向かい、『立ちあがって

海に飛び込め』と言い、少しも疑わず自分の言うとりになると信じるならば、その通

りになる。」

「だから言っておく。祈り求めるものは、すべてすでに得られたと信じなさい。そう

すれば、その通りになる。」

「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげ

なさい。そうすれば、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちを赦してくださる。」

ここには、三つの主イエスの言葉があります。他の福音書では別の文脈で語られてい

ますが、ここでは、それぞれ重い内容の言葉が一まとまりになって、神を信じ、祈る

ことのあり方を教えています。これほどまでに確信に満ち、一貫した姿勢で、信じ、

祈っているか、たじろがされます。主イエスは、このように、「恐れることはない。

ただ信じなさい」と繰り返し語られ、信じることに向かって励まし、祈りには信じら

れないほどの大きな力があることを約束されます。祈り求めるものは、“やがて”、

“部分的に”ではなく、“すべて”“すでに”得られたと信じることが勧められてい

ます。祈りを聴かれる主はどれほどに真実にわたしたちの祈りを聴かれているかが示

されているとともに、わたしたちの祈りがいかに半信半疑の祈りであるかが諭されま

す。祈りが聴かれない、山は動かない、変わらない、と思うのは、本当に祈っていな

いからだと悟らされるのは、第3の言葉で、誰かに対してわだかまりを持ちつつ、神

に対しては赦しを求める、祈る以前の心構えが不誠実になっていることが指摘されま

す。

 不思議なのは、これらの信仰と祈りを教える言葉が十字架の死へと至る最後の週、

いちじくの実が実らないことを呪い、宮清めをする続きの中で語られていることです。

神の時のおとづれを拒絶し、自分の時に固執し、真の神ではなく「自分の神」に祈る

傾向にあるわたしたちの信仰と生活への挑戦、主のことばの突入として語られている

のです。


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