1月18日
2009年1月18日

「 何の権威で行うのか? 」

エゼキエル書3:16-21 マルコによる福音書11:27-33


 「何の権威で、このようなことをしているのか。誰が、そうする権威を与えたのか。」

祭司長や律法学者、民の長老たちが主イエスに向かって問いただしています。神殿で

ものを売り買いしている人々追い出し、両替をしている者や鳩を売る者たちの台をひ

っくりかえしたことのリアクションが起こっています。「権威」とは、何かを自由に

選択し、行い、自分で自分の場を支配する力、権利、権力、資格などを意味します。

この世界で自分の生きるべき場と時間を確保している人々の代表者が、「何の権威で、

だれの権威で?」と問いかけ追い詰めて、主イエスの生きるべき場と時が無効である

ことを思い知らせ、この世から排除しているのです。主イエスの誕生のとき、「客間

には彼らのいる余地がなかった」と語られた情景、現在多くの失業者が経験している

問いが繰り返されています。

 マルコ福音書をはじめから学んできたものは知っています。主がガリラヤの会堂で

神の国の福音を宣教し始められたとき、人々はその言葉に驚いて、律法学者たちの話

とは違う「権威ある新しい教えだ」、と言い合ったことを。悪霊に憑かれた者たちが

口々に「神の聖者だ」と叫び、主イエスの弟子たちは悪霊を追い出す「権威」を授け

られたことを。従って、ここでは、神の国の支配のはじまりに出会って、この世の権

威を持つ者たち、古い時の支配者たちが、総力を挙げて新しい時の到来に抗議し、抵

抗し、阻止し、排除している構図です。

 主イエスは、彼らの問いに対して正面から答えません。逆に問いを放ちます。「ヨ

ハネのバプテスマは、天からのものか、人からのものか答えよ」と。彼らは答えるこ

とができません。彼らはヨハネの言葉など信じませんが、民衆の声を恐れます。彼ら

の政治的、社会的、宗教的権威、この世に生きる資格が、自分の誇りと人への恐れを

基盤とし、そのようなものから成り立っているからです。神の時の中で新しく自由に

生きることとはほど遠い姿が露呈されています。しかし、主イエス・キリストを十字

架へと追いやる力は、活動を終えたのではありません。


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