1月25日
2009年1月25日

「 家造りの捨てた石 」

イザヤ書5:1-7 マルコによる福音書12:1-12


 ぶどう園の主人と農夫をめぐるたとえ話は、なんともやりきれないひどい話です。

十字架の死を前にした主イエスが、自らの死の状況を予告するような、いや、その死

を招き寄せるような話を敢えてしていることに驚かされます。

 ぶどう園を設け、柵をめぐらし、ぶどう搾りの施設を掘り、万端整えて、それを農

夫たちに貸し出すぶどう園の主人。借りた農夫たちは、収穫の季節ごとに主人から遣

わされた僕たちを何も持たせないで帰すどころか、彼らを打ち叩いて侮辱したり、殺

してしまったりして散々な目にあわせます。ところが、ぶどう園の主人は、自分の愛

する息子だけは敬ってくれるだろうと考えてその息子を遣わします。何と甘い見通し。

農夫たちは、これは跡取りだから、これを殺せばぶどう園は自分たちのものになると、

息子を殺してしまってぶどう園の外に投げ捨てる。このような関係の結末は明らかで

す。「ぶどう園の主人は・・・戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たち

に与えるに違いない。」それは当然でしょう。しかし、どうして主イエスはこのよう

なありえないような譬えを話されたのか、それによって何を伝えようとされたのか、

それが不思議です。

 ぶどう園やぶどうの木は、神に選ばれたイスラエルの民をあらわす表象としてよく

用いられます。また、期待していたぶどうのが実りをもたらさないので切り捨てられ

る話や、何度も預言者を遣わして警告しても聞き従わないイスラエルに対して滅びが

迫っていることを預言する言葉など、旧約聖書にはよく出て来ますから、この譬えが

イスラエルの民と神との関係の歴史を表わしていることは確かです。愛する息子まで

殺してしまって、もはや取り返しのつかないところまでになってしまった神とイスラ

エルの関係、破局が描き出されているのです。しかし、ここで、主イエスの言葉は詩

篇118編の言葉が続きます。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。

これは主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」と。大逆転です。

捨てられた石、これが建物全体の重量を支える親石になる、まさに、主の十字架の意

味が語り出されているのです。


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