2月1日
2009年2月1日

「 神のものは神に 」

アモス書8:9-14 マルコによる福音書12:13-17


 エルサレムで最後の1週間を過ごす主イエス、何とかして言葉じりを捉えて陥れよ

うとする人々との対話が続きます。カエサルに税金を納めるべきか、納めるべきでは

ないかとの問いも、その息詰まる緊迫の中で語られた言葉です。ローマ皇帝に税金を

納めるべきか否かは、ユダヤ人にとって政治問題であると共に宗教問題でもありまし

た。ローマの支配下、重税の重荷はユダヤ国民にとって耐え難いことで、抵抗と反乱、

強力な軍事力による鎮圧の繰り返しでしたが、それは、税金として納めるべき貨幣が

カエサルの肖像と、「神の子」という刻印が押されていることによって、それに触れる

ことも使うことも神の戒めに背くことになると考えられたからです。税金を納めるべ

きだとの答えを引き出してカエサルの側につけるにしても、納めるべきではないとの

答えによって民衆の側につけるにしても、いずれにしても、主イエスを窮地に陥れる

ことができる問いとして、この問いは考え出されていることは明らかです。主イエス

の答えは当意即妙です。デナリ銀貨を出させて、そこにあるものはだれの肖像かと問

い、カエサルのもの、との答えを得ると、「カエサルものはカエサルに、神のものは

神に返しなさい」との答えます。この答えに驚嘆して、沈黙が支配します。

 この主イエスの有名な言葉は、彼らの下心を見透かして、見事に切り返し、その知

恵に驚かされます。しかし、この答えそのものは、現実の世界を生きるものには問い

の終わりではなく、問いのはじめとなるべきものではないでしょうか。カエサルのも

のと神のものとを混同せず、それぞれの果たすべき支配の領域があることを認めるに

しても、どのようにその二つの領域を見分けることができるのかという、もっと現実

的な、複雑な深い問いが起こるはずです。主イエスに更に問うならば、もっとはっき

りした答えが聞けたでしょう。神殿を「祈りの家」に回復するために両替するものの台

をひっくりかえされたのですから。その謎は、ご自身の十字架の死によって、罪を贖

う歩みから解き明かされるべきものでしょう。


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