イザヤ書25:4-10 マルコによる福音書12:18-27
サドカイ派の人々の復活をめぐる揚げ足取りの議論。モーセの律法の中にある「レ ビラート婚」の規定、すなわち、兄弟のうちで子孫を残さなかった場合、弟が兄の妻 を娶って子をもうけなければならいという規定を盾に、7人の兄弟が誰も子孫を残せ ないまま死んだとしたら、7人の兄弟を夫とした妻は死んだとき誰の妻になるか、と 問います。つまり、復活の信仰などナンセンスな幻想だと主張しているのです。 主イエスは、復活のとき、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになること、 主なる神がモーセに「わたしはアブラハムの神、イサクの神。ヤコブの神である」と 言われた言葉を語って、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」と 語られました。主の言葉自体まるで謎で、これによって何を語っておられるのかを理 解することは容易ではありません。 主イエスは「大変な思い違い」を指摘されます。復活は現在の生がそのまま再生し、 人間の関係の延長線上にあるものではない、といわれます。親しい者との再会、自爆 するテロリストたちのように現実の問題を劇的に解決するための手段として、どの民 族にも、また、わたしたちの身近にも復活への深い思いがあります。死の影にひそむ 復活の幻想です。 主イエスは、神の力と聖書が語る復活について、アブラハムの神,イサクの神・・ と語られます。これは、神はアブラハムの生涯、その生のすべてにおいてご自身をあ らわされる神であること、アブラハムの生が語られるとき神が語られ、神について語 られるときアブラハムが語られるというような関係の中でご自身を示される方である ことを明らかにしています。アブラハムは死すべき人間でその生には限りがあります が、神は永遠で、その生に限りがありません。神が生きておられる限り、アブラハム の名も消えることなく生きています。復活は、神の命にあずかること、命へと呼び出 してくださる神の力によることを明らかにしています。朽ちるものが朽ちないいのち によみがえり、滅ぶべきものが滅びない命に復活することだと。