詩篇110 マルコによる福音書12:35-40
十字架の死を目前にした主イエスの歩みの中で、主は群衆にどうして律法学者たち はメシアはダビデの子だというのか」とユダヤ人のメシア理解に対して疑問を投げか け、メシアは「ダビデの子」ではなく、「ダビデの主」であると主張されます。それ とともに、律法学者たちの偽善的、虚栄的、自己満足的な生活姿勢、祈りについて批 判されます。何をわたしたちに語ろうとしておられるのか、どのような秘義をわたし たちに伝えようとしておられるのか、これは難問です。 メシアが「ダビデの子」であるとの信仰は、旧約聖書の預言書の中にはっきり記さ れています。「わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この 国に正義と恵みの業を行う。彼の世にユダは救われイスラエルは安らかに住む」(エレミヤ23:5〜6)。 イザヤ書11章のメシア預言も、ダビデの子が「弱い人のために正当な裁きを行い、こ の地の貧しい人を公正に弁護する。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」 と、ダビデの子孫として生まれるメシアが果たす働きに期待を寄せています。メシア、 ダビデの子の信仰は、ユダヤ人にとってまさに正統的な信仰だったのです。主イエス は、わたしたちの願いでもあるこの信仰について、あえて、問いかけ、その希望の持 ち方、祈りの向う方向に揺さぶりをかけているのです。 その意味を問うとき、「枯れたイチジクの木」のところで示されたテーマと共通の 主張が浮かび上がります。人間の時、自然の時の中に突入してくる神の時に備えなけ ればならないというテーマです。救世主の到来を期待する人間の側の希望や祈り、正 義と公正と恵みの業に対する期待は高い理想に向かって励む心を与えますが、その一 方で、その理想は人間の願いと希望の総体にすぎず、現実には虚栄や偽善や自己満足 に堕することを免れません。メシアの到来はダビデの支配の再来ではなく、人間の願 いの実現を超えた、神からの時の到来、ダビデの主、神の救いの実現であることを 「メシア、ダビデの主」ということを通して表しているのです。では、「ダビデの主、 メシア」が示すメシア像はどのようなメシアか、それが、これからの主イエスの歩み の中で明らかにされます。