3月8日
2009年3月8日

「 主が喜ばれる献げ物 」

サムエル記上15:7-23 マルコによる福音書12:41-44


 エルサレムで最後の時を過ごしている主イエス。祭司長たちや律法学者らは「何と

か計略を用いてイエスを捕えて殺そうと考えていた」 と、その険悪な眼をイエスに

向かって注いでいた時、主イエスの眼差しはどこに注がれていたか。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。」

「座って、じっと」人々が献げものをしている様子、つまり、祈りの姿、人々の礼拝

の様を、「向かい合って」観察しておられるのです。

「大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプ

トン銅貨二枚、すなわち一クォドラントを入れた。」折から過越祭のためにイスラエ

ル全土から、いや、世界中に散在しているユダヤ人がエルサレムに集まり、神殿でそ

れぞれの思いを託して献金をささげ祈っています。雑踏の中で貧しいやもめの献げた

2枚のレプトン銅貨、片手一杯の小麦粉にしか値しないわずかなもの。投げ入れられ

た途端に、その小さな音は後から次々に投げ入れられる大きなにぎやかな音にかき消

されて、一瞬にして忘れ去られます。主イエスの眼差し、主の耳はこの貧しいやもめ

に注がれ、主の耳はこの小さな響きを聞き分けています。その二枚のレプトン銅貨が

担っている重い豊かな思いとともに。

 「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しやも

めは賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から

入れたが、この人は貧しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた

からだ』。」このやもめにとって、レプタ二つは生活費の全部。命をつなぐ最後の砦

ではなく、神に献げることができる最高のもの、これしか残っていないと、無いこと

を数えるのではなく、これがある、とあるものを最も必要なことに用いる選択と決断

をしたのです。

 不思議なことに、主はこのやもめに、確かにその祈りを聞き取ったと告げるのでは

なく、弟子たちに告げています。主が感じ、主が聞き分けられた響きを共有するため

に。主と同じように弟子たちの群れがレプタ二つの響きを聞き分けられるように。


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