イザヤ40:1〜11 Uコリント:1〜11
「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かに下 さる神がほめたたえられますように。」 コリントの教会はいつも順調だったとはいいにくいようです。教会の中の権力争い やキリスト者としての生活が問われるような出来事がいくつも起こっています。その ような中でパウロが記した手紙に、慰めという言葉が溢れている手紙があるのです。 このように、慰めという言葉が溢れている聖書の箇所というのは、他には見つかりま せん。 では、教会で語られる慰めとはいったい何なのでしょうか。悲しみや苦しみをまぎ らせるのが慰め。寂しさや悲しみや苦しみを忘れさせるのが慰め。そうであるならば、 今、現実に起きている苦しみから、気持ちをそらせるのが慰めということになるよう に思います。私たちが求める慰めは、もっと私たちの心の奥底まで届き、私たちをと らえて離さないものであります。 聖書は、「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたし たちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることがで きます」と言っています。本当の慰め、それは、苦難の中にいる私たちが全身を投げ 出して、より頼んでなお、生きる力に満ちているものであるはずです。パウロは慰め という言葉を6節で慰めと救いというふうにして、同じ言葉のように用いています。 救いと並べられるような慰め。そのような慰めがここで語られているのです。苦難に あったとき、いつでも、わたしたちの神は共にいて語りかけて、励ましてくださるの で、わたしたちはあらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。語りかけ、 励ますことができるともいえると思います。慰めとは方法ではありません。主から与 えられる苦しみも慰めも一つとして同じようなものはありません。しかし、どの苦し みも慰めもキリストに結び付けられています。 私たちが慰めを持っているわけではありません。しかし、私たちが持っていないか らこそ、私たちの只中で慰めが生きて働きます。苦難の中において、なお生きて働く 慰めが、私たちをここに招きました。私たちには絶望にも見える苦難の中でさえも働 かれる慰めの神がおられます。