3月22日
2009年3月22日

「 終 末 の 徴 」

ゼカリヤ書14:1-9 マルコによる福音書13:1-13


 主イエスはエルサレムの最後の週間において、ご自身の最後について語られただけ

でなく、目の前の壮麗な神殿の建物について、「一つの石もここで崩されずに他の石

の上に残ることはない」というような終わり、また、終末の事態についても語られま

した。わたしたちは時代とともに物事は変わってゆくということは知っていますが、

それがいつどのように変ってゆくのかは分かりません。目の前のものに目を奪われて

変わるべきものも変わらないと思い込んでいます。しかし、主イエスには見えていま

す。主イエスに見えている次の時、その到来の兆候をどのように見分けるか、また、

とのときにどのように心備えすべきか、主イエスの弟子たちはそのことを問うていま

す。

 主イエスは二つの種類のことに気をつけるようにと言っています。一つは外的なこ

と、主の名を名乗って惑わすもの、戦争や飢饉、地震など、これらに惑わされないよ

うに気をつけること、次に、自分自身に気をつけることです。外的な動乱や災害は、

起こらねばならないことであるが、「まだ世の終わりではない」と言われるのです。

わたしたちの目には世の終わりと思えることは、まだ終わりではない、むしろ、それ

は「産みの苦しみの始まり」だと言われるのです。この見方一つで世界を見る目は変

わります。終わりと思えることを始まりの兆候と見ること、これはまさにいまわたし

たちキリスト者が世界を見る基本的な視座であることに気付かされます。

 終わりに直面しているわたしたち自身が気をつけなければならないことは、わたし

たちに降りかかってくる信仰の証言の機会と分裂し崩壊する人間関係の中で証しし続

けなければならないとき時についての覚悟です。これも、必要な時、福音があらゆる

民に告げ知らされるために、必ず起こらなければならない、と主は言われます。しか

し、ここで聴く主イエスの言葉、代々のキリストが聞いた主の言葉は驚くべき慰めに

満ちています。

「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを

話せばよい。実は、話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ。・・・あなたがたはす

べての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる。」主イエスと共に、

必ず終わりを迎え、その中を生きるわたしたちにとって、これらの言葉が灯となって

わたしたちを導きます。


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